第17回 『働くことの哲学』読書会ノート

ラース・スヴェンセン著、小須田 健訳

『働くことの哲学』紀伊國屋書店、2016年

 

■著者の出身地

 最初に話題になったのは、1970年生まれの著者が20歳くらいまで暮らした「モス市」についてです。オスロフィヨルドの東岸にある人口5万人ほどの街ですが、「ちっぽけな工業都市」(10頁)と書かれていて、最も大きな会社は2000人の労働者を雇い入れていた造船所で、著者の父親は、1954年、14歳の時から2002年にアスベスト健康被害で引退する62歳まで、正規の配管工・現場監督として働いたという経歴を持っています。「父は、一生を同じ会社で定年まで勤めあげ」「出勤した日はいつも、ちょうど午後3時30分になると、すぐにも帰りたがった」「仕事と余暇のあいだにはきわめて厳格な区別があり」(10頁)などと書かれていて、これは今日の仕事の実態とは真逆のものといえます。

 この数十年に(執筆は2015年)根本的な変化が進行し、工場で働く労働者の数は減り、造船所、ガラス工場、コンクリート工場が閉鎖し、「この町を特徴づけているにおいの源である製紙工場」こそまだ残っているのを別とすれば、「この街がかつて工業街であったことを教えてくれる工場は、もはや無きに等しい」(210頁)と書かれています。しかし、工場は閉鎖されても、モス市にはほとんど失業者はおらず、脱工業化社会に向けた新たな雇用が創出され、「巨大なショッピングタウンのよう」と叙述されています。

 参加者の中にお一人、モス市を訪問したことのある人がいて、自身が住んでいたユービック市(3万人)にも製紙工場があったので、木材からパルプを製造する際のくさい匂いが同じようにただよっていた、という紹介もありました。

 

ノルウェーらしい「働くこと」

 次に、働くことに関してノルウェーらしさとは何か、ということが話題になりました。「仕事の話をするときに、楽しそうに話す」「自分の仕事に誇りを持っている」という面と、「良い条件の仕事であっても転職する」「欠勤が多い」という面の、ふたつの面からの意見が出されました。ノルウェーでは、ストライキも多いし、小さなお店でも夏休みには閉まるけれど、「これだけ休みをとっても国が成立している」のがノルウェーなのだとも。

 夏休みを10日間とって高原で過ごしているというリモート参加のメンバーからは、同行している会社員の娘は4日間の休みをリモートで仕事をしていたということで、「ノルウェーと日本では、余暇の取り方が違う」という指摘がありました。

 本書の著者も、仕事づけの日々がつづくなかで「仕事にやりがいを感じることが眼に見えて減っていった」「だが、仕事はやめられなかった」(228頁)と書いているように、ワーカホリックで仕事中毒になっている場合は、日本もノルウェーも同じことが言えるのでは、という意見が出されました。これに関して、著者は、1999年に使われた「ゼロドラッグ(仕事への支障の無い)」人間という用語を紹介し、「若くて未婚で子どももおらず、年老いた両親を世話する義務もなく、会社に必要とされるときには長時間勤務がいくらでも可能な人間」「会社からの要求を最優先にできる人間だ」(229頁)と解説しています。

 生活のいっさいが仕事を中心に回るようになって、生きていくうえで必要とする意味のほとんどは仕事からもたらされる、そんな仕事に巡り会えたなどと思い込んでしまったら、日々を重ねるごとに「人生で本当に重要なことがらが見失われてゆく」として、人生と仕事の関係に注意を喚起しています(231頁)。つまり、「幸福になるために必要なものは、仕事だけではない」「仕事イコール人生ではないのだ」と(234頁)。

 私は、後日に再読して、著者の言う「生きるうえでの究極の意味が仕事からもたらされると期待すると、やがて失望に見舞われる。同じことは愛情や友情から芸術、そのほかのなんにでも当てはまる。究極の意味などそもそもない。それだけで私たちを満足させてくれるものなどひとつとしてないのだ」(237頁)という内容が、人々にどれほど受け入れられているかがノルウェーの“哲学”かもしれない、と考えさせられました。

 

■労働時間

 著者の父親が働いていた造船所では「ちょうど午後3時30分に」仕事が終わり、「仕事と余暇のあいだにはきわめて厳格な区別」があったという記述(10頁)にかかわって、前に読書会で取り上げた『あるノルウェーの大工の日記』(オーレ・トシュテンセン著)でも、昼休み時間には、いうことが3週間連続して取る休暇をどう過ごすかが話題になっていたように、ノルウェーの労働者の労働条件が日本と違うと話題になりました。

 

 以下は、参加者から提供された情報ですが、ノルウェーの休暇手当について、NAV(ノルウェー労働福祉局)などが作成した移民向けの社会パンフレットから訳出したものです。

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【 休暇と休暇手当 Ferie og feriepenger 】

・9月30日までに就労を開始すれば、カレンダー年内に25日間、週日(ウイークデー)に休暇を取得できる。10月1日以降の場合、週日に6日間の休暇を取得できる。

・25日の休暇=「4週間と1日」の休み。6月1日から9月30日の長期休暇取得期間中に、3週間続けて休み、残りも別のときに1日毎ではなく、連続して取ることが可能。休暇についての契約条項は事前に話し合う必要あり。だだし、期間内のいつ休暇を取れるかを最終的に決めるのは雇用主。

・取得しなかった休暇は、2週間分まで翌年に持ち越し可能(労働者と雇用主双方の同意が必要)。休暇の先取りも、同様に契約可。病気のため休暇を取れなかった場合も、2週間の休暇を翌年に持ち越すことができる。年末までに休暇持越しを申請しなければ、取得しなかった休暇の権利は失効する。別の理由で翌年に持ち越した2週間分と、病気で持ち越した2週間分を併せて、合計で週日24日まで翌年に持ち越しが可能。

・休暇手当は、前年の給与所得ベースで、所得の10.2%。通常は、6月に支払われるが、実際には休暇を取る1週間前に支払われる。退職する場合は、最後の給与日に精算される。病欠中の労働者は、休暇取得が完了するか、退職するまで休暇手当は支払われない。この場合の休暇は雇用主と契約し、休暇手当を受け取る場合は、疾病手当の受給を一時的に中断するため、NAVに知らせること。1年のうち、給与が出るのは11ヶ月で、残りの1ヶ月は休暇手当が出る。

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 過去の労働者の労働時間について、1833年のイギリス工場法が言及されています。いわく、「13歳以上〔18歳未満〕の者にたいしては、午前5時半から夜8時半までのあいだでの12時間労働が明記されていた」「9歳から12歳までの子どもにたいしては、1日9時間の労働が定められていた」と(104頁)。

(注)著者も参照しているマルクスの『資本論』では、「9時間」ではなく「8時間」となっています<『資本論』第1巻、ディーツ社版マルクス・エンゲルス全集、原書295頁>。

 なお、『資本論』については、参加者から、戦後の日本で独自に研究が進んできたとして、例えば、①『資本論』の第8章は「労働時間」ではなく「労働日」とされており、「標準労働日の制定は、資本家と労働者との何世紀にもわたる闘争の結果である」として、「1日あたり」の労働時間を問題にし、労働者の「生活」に着目していたこと、②法律を守らせる「工場監督官」が1833年の工場法で設置されて、はじめて「標準労働日」が現われたこと、③マルクスは、工場監督官報告書の「もっとも大きな利益は、労働者自身の時間と彼の雇い主の時間との区別がついに明らかにされた」ということに注目しており、工場法が労働者を「彼ら自身の時間の主人にすることによって……ある精神的なエネルギーを彼らに与え、このエネルギーは、ついには彼らが政治的権力を握ることになるように彼らを導いている」<『資本論』第1巻、原書320頁>としていること、④さらに、工場監督官たちが「10時間法が資本家をも、単なる資本の化身としての彼に自然にそなわる残虐性からいくらかは解放して多少の“教養”のための時間を彼に与えた」と述べていることにも着目している、⑤工場法の教育条項について、マルクスは「初等教育を労働の強制条件として宣言」し、「教育および体育を筋肉労働と結びつけることの可能性をはじめて実証した」として、「一定の年齢から上のすべての子供のために、生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので……全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法」としている<『資本論』第1巻、原書507~508頁>、ことなどについての紹介がありました。

 

 また、2014年の時点でのOECD諸国の年間平均労働時間が紹介されていて、アメリカは1789時間、カナダは1704時間、オーストラリアは1664時間、イギリスは1677時間、ドイツは1371時間、フランスは1437時間(日本は1719時間)だと(108頁)。日本について少ない数字に思えるので調べてみると、日本の場合、「過労死」が社会問題となった1980年代の年間総実労働時間は、上記の2014年の数字よりも400時間ほど長く、2100時間を超えていました。

 著者は、「過労死」についても言及しています。すなわち、「働き過ぎて死んでしまうことを一語であらわすことばは、英語にはない。それは日本語では、“過労死”と呼ばれ……深刻な問題として認知されており、厚生労働省からは”過労”による死亡の労働統計が毎年公表されている」(112頁)と。

 

■給料

 給料については、「家族や友人とよい関係を保つこと以上に、金儲けに高い価値をつけることなどけっしてすべきではない」(155頁)という観点から、「他人と比較して自分がどれだけもらっているかが、私たちにとって重要なポイントであることは明白だ」(156頁)として、「それ自体で有意義であった活動が、意義をまったく欠いた賃労働になりさがってしまうのだ。この意味では、もっとも関心のあることを仕事にしないで、……一番の関心事が金銭によって『台なしにされる』ことがないように配慮すべき」という“忠告”を与えています(158頁)。ここに書かれている「2番目か3番目に関心のあるものを仕事にして」というアドバイスについては、安定した収入が保証されて、働けば4週間は休めるという“生活文化の違い”があって初めて考えられることではないか、という意見が出されました。

 最低限の労働条件(労働環境)が保障され“土台”がしっかりしているノルウェーと、そうではなく「底が抜けている」日本とでは比較にならないわけですが、日本人の「がまん」や「根性論」では問題解決にならないのは明白です。例えば、北海道出身者からは、「寒さ」への対応などは、生存に欠かすことが出来ない最低限の保障であることが紹介されました。

 この問題は、給料(賃金)だけではなく社会保障(住宅や教育)とセットで考える必要がありますが、著者は「一定のセーフティネットのついた”能力主義”システム」(167頁)、つまり賃金ないし社会保障というかたちで、だれにたいしても一定程度の収入は保証されるが、それ以外に市場のニーズに左右される仕事から得られる収入面での不平等は避けられないということは妥当だ、としています。そうして、収入が上がったり、昇進したりしたからといって、それに応じて幸福感が増大するわけではないと念押しをするのです。

 

■職場のストレス

 ノルウェーでは、「人間関係が原因で仕事を辞めていく事例はないのか?」とか、「職場での悩みというのはないのだろうか?」ということが話題になりました。さらに、日本ではバーンアウト燃え尽き症候群)という問題がありますが、ノルウェー人はバーンアウトしないのだろうか?とも。これらは、「人間の自由」(と管理)の問題と深くかかわっているようです。

 著者は、「第5章 管理されること」では、管理についての書物でもっとも成功を収めた『エクセレント・カンパニー』(邦訳、2003年)などの勧告にしたがっても、「なんの助けにもならないどころか真逆の結果に陥ることが少なくない」(148頁)と指摘しています。加えて、このところの「管理哲学」を気どっているあまたの安っぽいテキストを読まされると「むかむかせずにはいられない」(149頁)とも。その通りだと思えました。

 例えば、「楽しむこと」を押しつけるトレンドについても、「強制されたあるいは無理矢理の楽しみなど、そもそも楽しみではない」として、「絶えず私たちを楽しませよう(エンターテイン)と努める上司をもつのは、精神的拷問だ」とまで断言するのです(150~51頁)。そして、管理を重視する風潮は今以上に高まってゆくだろうが、普通の従業員にできることがあるとすれば、上司の発言に耳を貸すふりをして、「管理職の気まぐれが、別の気まぐれにすりかわることなく消えさるのを待つことぐらい」と、やや皮肉な(ノルウェー的なユーモアに富んだ?)アドバイスをしています。

 参加者の一人からは、スウェーデンの障害者団体が日本に来たとき、大阪にある障害者の作業所を案内したことがあるが、スウェーデンの障害者から「重度の障害者が仕事をしているのは素晴らしいが、同じ作業ばかりしているのはいかがなものか?」という感想が出されたことが紹介されました。また、ノルウェーでの経験として、バスの運転手さんと大学の教授が友人で、対等に挨拶している姿が印象的であった、という発言もありました。

 ノルウェーで仕事のストレスが少ないのは、「これをやりたい」と思ったことが実現するまでのプロセスを、時間をあまりかけないでできるとか、「みんなでやろう」という意識が強いので、反対意見だった人もいざ方針が決まったなら応援する側に回るなど、日本と民主主義の成熟度に違いがあるのではないか、という意見も出されました。

 それから、“自由”ということにかかわっては、参加者から、ノルウェー人の夫が「来週の予定について話すのを嫌がる」のだけれども、その理由が「天気によって予定は変わるものなので」という話を聞いて、みなさん得心がいきました。また、ノルウェーでは、家と家の間隔が広くとられているので「パーソナルなスペース」が確保されていることや、「自然と親しむ」のを心から楽しんでいることなども、人間の自由の感覚と深く関わっているのではないか、といった意見交換がなされました。

 

■仕事(の割りふり)について

 「興味深い仕事」(90頁)とはどういうものかという点にかかわって、仕事に“自己実現”まで期待するのは要求過多ではないだろうか、という問題提起の発言がなされました。

 著者は、「内的な”善(グッド)”(趣味や自己実現といった)」にかかわる仕事と「外的な”財(グッド)”(給料や報酬といった)」にかかわる仕事とが均等に配分されていないことは火を見るよりあきらかだ、と断言しています(90頁)。また、あらゆる国民に「普遍的な働く権利」を保障している国など西洋にはひとつとしてない(99頁)とも。なぜならそれは、経済的な観点からほとんど無意味なだけでなく、「私たちが手に入れたいと願うのは働く権利などではない」からだと述べています。つまり、「働く権利は、当人の望む職への権利とはなりえない」ということを強調しているわけです(101頁)。

 そうして、現代の社会が、いずれかの種類のグッド(内的な善=自己実現;外的な財=報酬)をも均等に配分するという理想に少しでも近づこうとしているとしたら、それは賢明とは言えない、「あらゆる不平等を除去することばかりがめざされる社会は、はるかに劣る選択肢にしかならない」と結論しているのです(102頁)。

 大学関係の参加者から、就活をしている学生には、①仕事は給料(=報酬)をもらうためにするものであること、②絶対に「やりたくない仕事」は何かを考えること、というアドバイスをしているという意見も出されました。

 さらに、日本では、公務員でも「ジェネラリスト」が求められているので、専門職で「やりたい仕事」に就けるのは困難になっている、という発言も続きました。

 

■仕事の意味

 次に、仕事の意味にかかわっては、「マックジョブファストフード店に特徴的な、マニュアルに縛られた単調で創造性のない仕事の総称〕についてふれられています。また、ここ30年に西洋世界でもっとも急速に増大した労働者集団は、「短期の仕事の斡旋業者に雇われた人びと」(74頁)であるとも。そして、「臨時雇い」でいる限り、「なにかひとつのことを本当にマスターするための機会を得ることはまずない」として、「短期の仕事と職人技とが両立することはありえない」と述べているのです(76頁)。

 この点に関連して、「イケア」で売られている大量生産された安価でモダンな家具と、何世代にわたって使い続けられる手作りの伝統的な家具の違いから、職人技や専門的技能について話し合われました。

 著者は、「工場の清掃助手」(工場の清掃といっても相当プロフェッショナルな仕事内容)として5年、清掃助手として3年の計8年ほど働いた経験を踏まえて(76~78頁)、職人的技能については「創造性を発揮する余地がどれくらいあるというのか」(76頁)ということに注目しており、そして「仕事をきちんとこなせるということは、それだけである種の満足感をもたらしてくれる」(79頁)と述べています。そして、大工仕事であろうと清掃業であろうと学問を学ぶ場合であろうと、「専門技能を学ぶとは、さまざまな習慣を身につけていくこと」であり、相応の時間がかかり、「そのこと自体が尽きることのない喜びの源泉になる」(79~80頁)としています。

 つまり、著者にとって、「その仕事によってじっさいに自分がゆたかで意義に満ちていると心底思える生活を送っているか」ということが核心的な問いなのであり、この問いは、私たちの生活の全体にかかわるので「仕事そのものよりもはるかに広大なものである」としているのです(81頁)。

 なお、著者は「知的仕事と力仕事との差異は、程度の問題であって、……どんな仕事にも、この両方の要素が含まれている」(140頁)として、両者のバランスの問題を明確に示しています。そして、現代では、自動車工場フォードの流れ作業に結合された「テイラーの科学的管理法」が、肉体労働者ばかりでなく知識労働者にも適用されるようになって、「政治的統治や大学運営もふくめてあらゆる種類の労働に応用される」ようになった(141頁)と述べていることなどは慧眼といえるでしょう。

 参加者からは、「働くこと」と「仕事をすること」、「職業に就くこと」の区別が必要かもしれないことや、「働いている人を支える哲学」も必要ではないか、という意見が出されました。

 

■余暇とショッピング、そして「公共」概念

 最後に、著者が言いたかったのは何だったのだろうか、ということに話が及びました。

 著者は、「ゆたかさ」(飽食)のほうが「余暇」(レジャー)よりもはるかに増大しているとして(172頁)、「私たちは余暇よりもショッピングを選んだ」(173頁)と述べています。そして、1950年代にガルブレイスが、私財(個人消費)の点では裕福だが公共財(社会保障や教育)という点では貧しい社会を指して「ゆたかな社会」であると皮肉をこめて使ったことにも言及して、個人消費の増大を批判したのだと紹介しています(173頁)。

 さらに、「飽食の社会とは消費社会のことだ」として、「仕事ではなく消費こそが、社会的アイデンティティの形成にとって本質的な構成要素だと主張する論者の数は増えるいっぽうだ」(183頁)と批判しているのです。飽食の社会とは、「善良な市民たち」がショッピングによって自身がなにものであるかを見せびらかそうと躍起になっている社会だ(185頁)とも。しかし、消費の問題では、所有物がどんどん増えてゆくにつれて、おのおのに費やせる時間はどんどん減ってゆき、結果的にそれらの重要性も失われていくのであると分析します(186頁)。

 したがって、「消費だけからなる生活」が私たちを満足させてくれることがありえないからこそ、仕事には、もっと違った大切な役割、すなわち「意味とアイデンティティの本質的な源泉として機能するという役割」が依然として残されている、と主張しているのです(188頁)。

 なお、本書の第1版(2008年)と第2版(2016年)の間には、大きな変更がなされています。参加者からも、前半と後半の印象がかなり異なるように思われるという感想がありました。著者によれば、第8章「仕事とグローバリゼーション」を新たに書き加えたほか、「飽食の時代における仕事や仕事の未来をあつかった後半のいくつか章は、はるかに徹底的な改訂をしないわけにはゆかなくなった」(7頁)ということです。

 

■まとめ

 著者は、ハンナ・アレントを引用して、「現代社会は、仕事を神聖視するあまり、仕事を欠いた人生がどんなものとなりうるか、またどんなものであるべきかを見とおすことができなくなってしまった」が、それは私たちが「仕事から自由になりつつある」のではなく、「仕事が姿を変えつつある」ということを見損なっていると指摘しています(222頁)。つまり、「こんにち仕事とみなされているものの多くが……まえの世代がレジャーと呼んだものにおそらくずっと似たものになりはするだろう」(223頁)というのです。

 繰り返しになりますが、「私たちが生きるうえで必要とすることは、けっして仕事だけに尽きはしない。仕事イコール人生ではない」(234頁)ので、「仕事が自分の人生のなかでどれほどの重みをもつものであるのかを見積もる作業を、けっして怠ってはならない」(239頁)というのが著者の結びの言葉ということで、参加者一同が納得しました。(掛)

 

【追記1】参加者の中に、ノルウェーの民俗楽器「柳の笛」(羊飼いの牧童が、春、柳の若い枝からつくる笛;シェパードフルート、スプリングフルート)を製作する方と、ノルウェーの民俗音楽を研究される方がおられて、美しい装飾が施された笛を見せあうなどしながら話が盛り上がりました(Zoomでは、音が拾えなかったのが残念!)。

 

【追記2】この「まとめ」をアップする前の相互チェックをしているあいだに、2023年のノーベル文学賞が、ノルウェーの劇作家ヨン・フォッセ氏(64歳)に決まったという嬉しいニュースが飛び込んできました。フォッセ氏は、「この賞は何よりも文学であることを目指す文学に与えられる賞だと思っている」と語ったそうです。「ノルウェー読書会」では、まだ取り上げていませんが、どの作品を読むことが出来るようになるのか、これから楽しみです。