第13回 『小さい牛追い』読書会ノート

マリー・ハムズン作、石井桃子訳『小さい牛追い』岩波少年文庫、1950年

 

はじめに

 『小さい牛追い』は、1950年12月25日に創刊された岩波少年文庫の最初の5冊の内の1冊であり(創刊の中心的な役割を担ったのが訳者の石井桃子)、「70周年記念」ということで「ダブルカバー」で出されている本があることが司会者から紹介され、また、作者の名前が「ハムズン」とされているがノルウェー語では「ハムスン」と発音されることがノルウェー語の専門家から指摘があった(2005年、新版第1刷発行)。

 なお、若菜晃子編著『岩波少年文庫のあゆみ1950-2020』(岩波少年文庫別冊2、2021年)を見ると、翌1951年発行の『牛追いの冬』(翻訳の底本となったA NORWEGIAN FARM, 1933 を、日本語版では2冊に分けて出版した)には、カラーの口絵がついていたこともわかる。読書会でも「カバーや文中の挿絵(エルザ・ジェム作)が興味深い」という声が、参加者の多くからあがった(例えば、11頁の乳搾りの様子、51頁のアンナの姿など)。

 

1.参加者の感想

 最初に、読んだ感想についてそれぞれが出し合った。

・「子どもの気持ちがうまく描かれているので、読み手が自分の子ども時代と結びつけて理解することができる」

・「子どもの名前や牛の名前などが混同するので、それらを書きだした“相関図”を作りながら読み進めた」

・「訳者の石井桃子さんの農業体験が反映されていると思えた」(石井さんは終戦後、宮城県で農業を営んでいた)

・「先日、避暑にいった岡山の蒜山高原は、ジャージー牛が3000頭も飼育されているので、この本を読みながら、牛や草の匂いとともに物語の世界に入ることができた」

・「自分の家族でも“長男あるある”や“二男あるある”だよね、という箇所が多かった」

・「100年前、子どもは本を読むことができなかった」;「周りの大人の子どもへの接し方が、子どもを知った接し方で感心した」

・「長男のオーラは想像力豊かな子だ」など。

 

 また、「北欧には、アストリッド・リンドグレーン(1907~2002)の『やかまし村の子どもたち』(1947、続編2編49,52年)、アルフ・プリョイセン(1914~70)の『小さなスプーンおばさん』シリーズ(1957~67年)、アンネ=カット・ヴェストリ(1920〜2008)の『おばあちゃんと八人の子どもたち』シリーズ(1957〜61、 86、 99年、未邦訳)など、似た性質の作品がある。プリョイセンの時代にはさらにユーモラスな内容になっているが、ハムスンの作品にはもっとシンプルな子どもの日常が描かれているように感じられた」という文学上の話も紹介された。

 

2ノルウェーにおける「牛追い」のいろいろ

 読書会の直前にノルウェーから帰国した参加者から、ノルウェーでの牛飼い(羊、山羊)の様子がスライドで紹介され、「牛追い」についてのイメージが多様に語られた。

Briksdalの氷河を背景に、放牧中の仔山羊たち

 昔、ノルウェーの放牧場の横をノルウェー人の友人と車で走っていた時に、友人が「よく見てみろ、牛がみんな同じ方向を向いて草をはんでいるだろ」と言うので、私が「ノルウェーは自由な国なのだから、君たちも好きな方向を向いて食べたら?」と牛に向かって叫んだら、友人が大笑いした経験がある。その時の牛は、ベルをつけていなかったように思う。

 また、牛追いが家に帰ってくるときのノルウェーの動画(牛の首のベルの音)をみると、牛たちは結構素直に戻ってきているとか、盛岡の小岩井農場では「シープドッグ」が使われていたが、ノルウェーではあまり見かけないので、おそらく、大規模に何百頭も飼っている牧場との違いではないかという話しにもなった。

 この本で、牛が迷子にならずに戻ってくることや、10歳とか8歳の男の子が牛追いをやって小遣いをもらっているのに驚かされたという感想も出された。

 ノルウェー国立美術館にあるヨハン・クリスチャン・ダール(1788~1857)の有名な風景画「スタルハイムからの眺望」(1842年)をよく見ると、民族衣装のブーナッドを着て牛の側にいる“女の子”が小さく描かれている。ノルウェーでブーナッドを作るのは堅信礼(14歳位)の頃なので、この本に登場する子どもたちはまだ持っていないはず。着用するのも5月17日の憲法記念日独立記念日)等の特別な日なので、農作業の時などは着ないのではないか。と考えると、ダールの絵の女の子がブーナッドを着ているのは少し謎である。もしかしたら19世紀に起こった民族主義の影響もあるのではないかなど、話題はつきなかった。

Johan Christian Dahl 1842 Fra Isdalen ved Svartediket nær Bergen

 

 

   ちなみに、5月17日の「子どもの行進」は、彼の詩がノルウェー国歌にもなってノーベル文学賞を受賞したビヨルンソン(1832~1910)が1870年に始めている(この時参加した1200人は全員が男の子。女の子が参加できるようになったのは1889年から)。

 

3ノルウェーの自然の中での暮らしと子どもの労働

 さらに、(この本の162頁に「きれいなうすいシラカバの皮でできた箱」がでてくるので)スライドで、白樺の樹皮でつくったバッグなどの品物が映されたり、(197頁の「コケモモなんか、木イチゴにくらべたら、ほんとにつまりません」とあるのに関連して)「クランベリー(コケモモ)」より「ラズベリー(木イチゴ)」の方が美味しいという話しや(値段的には、湿地で育つ「クラウドベリー」が「森の黄金」と言われるほど稀少性があって高い)、秋になると森でベリー摘みをするノルウェーの子どもたちが、顔にベリーでペインティングしたりして遊んでいることなどが紹介された。

クランベリーは肉料理の付け合せにも

 1924年出版(英語版は1933年)の『セーテルの子どもたち』では、牛追いは男性の仕事(山の上の牧場で働く『アルプスの少女ハイジ』のペーターも)、乳搾りをしてチーズやバターをつくるのは女性の仕事(「ブダイエ」と言う)という描写がある。『小さい牛追い』では、「バタをつくっている、きれいな娘さん」「こんなに若い、きれいな乳しぼり女」(241頁)がでてくる。

   19世紀の子どもには、年齢なりの労働が期待されている。仕事は家族みんなで分担するのが当然で、「労働力としての子ども」が描かれている。したがって、「お手伝い」のレベルではない労働だといえる。この本でも、子どもたちに関わるお金のやりとりが、あちこちに出てくる。

   また、子どもたちが「インディアンごっこ」をして(57頁~)、「平和のパイプ」のタバコを吸う場面(60頁)や、材木小屋が「メキシコ」と呼ばれている(127頁)のは、何か唐突な感じがする(暖かい南の国へのあこがれからかも?)が、19世紀末以降、北欧からアメリカへ多くの人が移民として渡っていったことが、アメリカ大陸の身近な情報として子どもたちの世界にも影響しているのではないか?という話になった。ちなみに、彼らが住んだのは、ミネソタなど五大湖周辺の寒いところが多い。ハムスンも、若いときに食い詰めて2度アメリカに渡り、シカゴで働いたりなどしている。

  「マムレの森」(42頁)は、聖書に出てくる創世記の話だが、オーラが聖書の勉強をしているのを反映しているとも考えられる。

    おばあさんに「黒い髭が生えている」(66頁)というのもビックリするが、髭が生えている女性もいるので、怖い存在として描いている。ただ、65頁の挿絵ではやさしそうに描かれているが…。

   「ランゲリュード」という農場の名前(9頁)は、スウェーデン南部のスモーランドにもあるような名前だ。ノルウェーの西海岸にはない。マリー(1881~1969)の出身地は、リレハンメルの近くのエルベルムの出身なので、そのあたりかも。

 

4.母親マリーと父親クヌート

   『小さな牛追い』(1933年、原題「ノルウェーの農場」の第1部)は、夫クヌート・ハムスン(1859~1952)が『土の恵み』(1917年)で1920年ノーベル賞を取った後の作品。女優志望だったマリーは、1909年にハムスンと結婚(27歳)して、農場で暮らす。ブックカバーの著者紹介には、「洗練された都市文化を否定し、自ら原始的な農民生活をした」とされている。若い母親であった頃の自分の4人の子どもたち(男・男・女・女)の生活をもとに、8年にわたって『村のこどもたち』(1932年)を執筆している。なお、ハムスン夫妻は、1918年に南ノルウェーのリレサン(Lillesand)とグリムスタ(Grimstad)の間の「ノルホルム」に屋敷を建て住んだ(ここにお墓も)。

   この本には、大作家クヌート・ハムスンの妻であるマリーの、夫への感情が反映しているところもあるのではないか。例えば、父親の存在感があまり感じられない。お母さんと子どもの場面(喧嘩など)は多いが、父親は一見影が薄いが、「花よめ、花むこ、お通りだ」(26頁)や物語の場面転換(112頁)で登場し、父親がオーラの背中を後から押す(91頁)など、お父さんは息子をちゃんと見ていると思わせる“おいしいところ”に出てきている、という感想もあった。

   なお、長女インゲリドの扱いがやや少ないが、この点に関しては、『やかまし村』や『スプーンおばさん』『おばあちゃんと八人の子どもたち』などは、おばあちゃんなど一部の登場人物に焦点を当てるが、『小さい牛追い』は、どの子にもスポットライトが当たっているので好きだという意見も出された。

   また、本作には、ほんとうに「いやな人物」や「悪い人」というのは出てこない。最近のノルウェーのドラマなどでも、「最後までの悪人」というのは出てこないような気がするということが紹介された。

   「家族の思い出」ではない、みんなが普遍的に読める本。「お母さんが書いた本」という感じがする。農場での子どもたちの牛追いの様子を書いたというよりは、兄弟同士の掛け合いとか、子どもたちの生活を元にして書いたという感想が出されるのは、そのあたりの影響ではないか。まだ「男性中心の社会」だったにもかかわらず、長子偏重や男子偏重になっていないのが特徴だとする意見もあった。

 

5.その他の意見交換

   『牛追いの冬』にある「訳者あとがき」にも、「そのころ、東北のいなかで牛を飼っていた私にとって、オーラたちの生活は全く身近で、オーラたち自身、いわば、友だちのように親しく思われていた」とか、「ハムズン家の子どもたちの生活をモデルにしたものですが、自分の子どもたちのことを、これだけ距離をおいて書けたのは、夫人にもなみなみでない作家的力量があったことを思わないわけにはいけません」など、いろんな人が共感できる指摘がある。

   大人が読むと「そんなことしたら危ない」というハラハラ感があるが、子どもが読んでもそうなのではないか?

   「養老院に救済されているほど嫌なことはない」(83頁)とあるが、この養老院は「救貧小屋」のことではないか? リンドグレーンの『エーミル』にも出てくるが、そちらは大人数の救貧小屋だった。

   151頁の「話を変えた方が良さそうです」という場面で(145~155頁)、オーラは優しい子なのに、女の子(インゲル)が「家であまりいい思いをしていない」(=お母さんからあまり良い扱いを受けていない)という話を聞いた時、何か助けてあげる行動をするのではなく「話を変えて」終わらせていることに違和感をおぼえた、という指摘がなされ、そのあとの自分の家族と違った家族と出会った時の様子に続いているので、オーラの家の「お母さんが温かく迎えてくれるのが当たり前」という雰囲気と違う家族を目の当たりにした時の反応、ちょっとそこで思考が一瞬止まってしまうような感じが子どもらしいというか、「自分の知らない世界のダークな部分は自分にはまだ何が原因かわからない」というのが子どもの反応なのかな、と納得できたという感想が出された。

 

(補遺)---------------------------------------------------------------------------------------

   このノートを書きながら再読して、次のような箇所を発見しました。すなわち、「ふたりは……インゲルが……骨ばかりの小さいからだで、思いバタ作り機を舞わしているのをながめると、心が暗くなりました」(254頁)という場面で、「じぶんが、まい日、どんなにこき使われているか、またあの女の人が、じぶんにどんな口のききようをするか、オーラたちに見られて、インゲルは、はずかしがっているのです。それが、オーラにはわかりました」(255頁)という叙述があって、そのあとで、「オーラは、なんといたらいいか、わからないでいるのに、エイナールのほうは、なかなか気がきいていました。エイナールはすぐに……ごほうびのことなどを話しはじめました。それから、前の晩、どんなふうにしてねたとか……話しているうちに、インゲルも、だんだん元気になってきました」(256頁)と書かれていて、真面目だが融通の利かない長男のオーラより、機転が利いて明るい二男エイナールの資質を高く評価しているのです。“長男あるある、二男あるある”の新たな局面のように思えました。

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   また、夫の「グスタ・ギュドブランド」と妻の「ギュドブランド・グスタ」についても(223頁)、姓(名字)と名(名前)が入れ替えられているのが面白かったが、どうしてこんな風にされているのか、言葉遊びの一種なのか、本当にこういう名前の人がいるのか、作者の意図は何だったんだろうと思った、という意見も出された。

   「コーヒーがなくては生きていかれない」(223頁)という話が出てくるが、この頃のコーヒーは“ヤカンで煮出す”コーヒーだったと思われる。コーヒーが南米から、たばこがアメリカから伝わったとしたら、メキシコからは何が入ってきたのだろうか? 疑問はつきない。

   オスロの民族博物館に行ったとき、19世紀の労働者の家のストーブの上には「ヤカン」があって煮出したコーヒーが置いてあった。飲ませてもらったけど、今日のような美味しい飲み物ではなかった。また、労働者階級のところで、子どもがタバコを吸っている写真も展示していた。この本にも、お母さんがタバコを吸うのを怒る場面も出てくる(63~64頁)。

 

おわりに

   参加者からは、最後に次のような発言が寄せられた。

・「子どもたちは“子育て漫画”がとても好きなので、『小さな牛追い』は、共感を覚える作品だ」

・「この子たちは、どうやって大人になっていくかという点でさらなる興味が湧いた」

・「『大草原の小さな家』の挿絵とも似ているので、興味が持てた」

・「読書会で時代背景など知れたのが面白かった」

・「大人向けに、注釈があったら面白いと思う」

・「例えば、『りっぱなコーヒーわかし』(230頁)が3歳の息子と同じぐらい大事といわれたら、それはどれほど立派なものなの?」

・「100円というわかりやすい単位に訳されているが、実際の価値はどれぐらいか?とか、牛追いのアルバイト代は妥当なのか?とか、いろいろ知りたくなる」

 

   そうして、「牧歌的な子どもの本『小さい牛追い』を、このノルウェー読書会でどう読むのか気がかりだったが、やはり“社会的な読書会”になった」、「100年近く前に、日本からは遠いノルウェーで書かれた本が、今日なお共感をもって読まれるというのはすごいこと」という発言で2時間の読書会がまとめられた。(掛)

 

【次回の予告】===========================================

     第14回ノルウェー読書会 2022年12月10日(土)14:00~16:00
     オーレ・トシュテンセン著        中村冬美/リセ・スコウ訳、牧尾晴喜監訳  
    『あるノルウェーの大工の日記』エクスナレッジ、2017年、1,870円(税込)

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