第16回 『馬を盗みに』読書会ノート

ペール・ペッテルソン著、西田英恵訳『馬を盗みに』(白水社、2010年)

 

 第16回の読書会は、久しぶりの「物語を楽しむ」回となった。まだこの作品を読んだことがない方にとっては、「馬を盗みに」という題名から、いくつかのお話のパターンがある程度想像されるかもしれないが、案外その部分の描写はそこまで中心的でなく、だからこそ「どこ向かってに進んでいるのだろう」という思いで読み進めていくことになり、その「わからなさ」もこの図書の魅力ではないかと感じた。

 今回も、ノルウェーを訪れたことがある方たちが多く出席した読書会となった。中には昔、一度原語でこの本に挑戦されていた方もいて、その時は途中までで終わっていたが、今回改めて日本語で読み通してみて、こんなにいい本だったんだと気付いたという感想もあった。

 参加者の読後の印象的な部分としては、「自然の描写」と「労働や生活の描写」の二点に集中していた。読書会も16回続けてきたことにより、私たちに読んできたものの蓄積ができてきたので、ノルウェーの日常や季節の変化に少しずつ「見覚えがある」といった感覚を持てるようになってきている、というのが発見の一つであった。一見、それぞれは関係のないようなこれまでの課題本たちも、やはり背景となっている「ノルウェー」があればこそ、つながっているのである。

 

 ▶よい翻訳とは?

 そういう意味でも、ノルウェー独特のものや文化を私たちが翻訳で楽しむ際に、注釈であったり、作中に登場した地名がわかるような地図が必要か?というような話題が、読書会の二時間の中で割と多くを占めた。説明でいちいち止まらずに読んでいきたいと思う人もいれば、やはりそういうことが書いてあった方が理解しやすいという人もいて、読みたい人は読めばいいし、そうでない場合も読者が選べるのでは、という意見もあった。

 たとえば、作中には、私たちに馴染みのない「赤と白と青のノルウェー」(92ページ)や、「クズリの歌」(182ページ)といった曲名が出てくる。最近は検索すればそういったものも音源を見つけることができるが、実際の歌を聞けばそれだけで作品の理解が深くなるかといえばそうとも言い切れないだろう。とはいえ、著者の頭の中では流れているであろうその曲を全く知らずに読者は「読めた」ことになるのだろうか。それとも、その歌の背景等の説明があった方が、なぜこの場面でこれを歌うのかなどが理解できるのだろうか。

 参加者から、「あとがき」というのは日本独特のものだという話も出てきた。ノルウェーの作家は、読み方について「読者におまかせ」という気持ちもあるのだろう。翻訳の仕事をしている参加者もいたので、なおさら「流れを途切れさせないよい翻訳とはなにか」という話題が尽きなかった。

 

ノルウェー文学と労働

 「ノルウェーの小説にしては、暗くならず読みやすかった」という感想もあった。気持ちの表現だけではなく、自然や生活の描写があるのが読みやすさの理由かもしれないとのことだった。この物語には、小さくない悲劇が出てくるが、それでも日々は淡々と過ぎているという描写がある。それぞれが秘密を抱えていても、その現れ方ですら静かな印象だ。そして、そんな事件があった後でも仕事に出かける人々。「薄っぺらな思想」(79ページ)ではなく、地に足の着いた生活を尊敬している。仕事をする、道具をきちんと管理していることが自分自身の管理、自立した生活ができていることにもつながっているのだ。主人公の父が行っていた、「見通しを立て、必要な道具を計算された順序に並べ、始めから終わりまで段階を踏んで、頭を使い、両手を使い、楽しみながら」「するべきことに一つずつ取り組んで」いたやり方、それが主人公にとって「わたしの求める生活なのだ」(171ページ)とも書かれている。

 主人公がスーパーで、男やもめである自分の見え方を気にする描写もあったが(75ページ、208ページ)、一人暮らしでは時間の浪費を気にしてテレビを持たないことを決めていたり、一人きりの食事でもいい加減にはすまさないようにすることを自らに課していたりするあたりからも、律するということを大切に、世界に自分をつなぎとめようとしていることがうかがえる。

 労働、日々の仕事というものが生活の糧を得るだけのものにとどまらず、人の気持ちにもこんなにも影響してくるものであり、また、辛い現実からある意味救ってくれているものかもしれないということが、大げさな表現は出てこないが、この一冊を通して、それぞれの登場人物の言動を見ていると納得させられるのである。

 

 ▶変化とは?

 読書会がもうあと一週間遅ければ、もう一回くらい読みたかった、という参加者の声もあった。私自身も、読書会のあと再読してみた。この話は、一冊を通して「変化」という点に着目して読んでみるのも面白いかもしれない、というのが新たな感想だった。

 物語は、主人公が引っ越した新しい家から始まる。67歳である現在の「わたし」と15歳であった「ぼく」、二つの時代のできごとが代わる代わる出てきて、「これはいつの話なんだろう」と混乱してしまうところもあるが、読書会の中では、そういった時間通りの順番で語られていないところが面白いのだという意見もあった。

 「まったく新しい生活を始める場所を探し」(74ページ)、「長年の望みだった」(9ページ)一人暮らしを始めているが、顔見知り程度だった隣人が実は自身の人生に深いかかわりがあった人物だとわかって、改めてこれまでの人生、特に十代の夏を振り返ることになる。

 「罪を犯すと人は変わる」(25ページ)といった表現もあるように、いくつかの罪がこの話には出てきており、そのことで主人公は、父をはじめ、周りの人々との関係を考える。

 「生まれ変わったような」といった言葉が何度も出てくることから、主人公は人生を乗り越えるためそのように自身を変化させていかなければならなかったのかもしれないが、大切な話を父からではなく別の人間から聞かされたことや、思いがけないタイミングで最後の別れとなってしまったことを何度か経験してきたことで、主人公からは自身の人生に対しての自信のなさもうかがえる。それをあえて「わたしは運がいい」(11ページ)と思い込もうとしているのかもしれない。

 物語の終盤、主人公の娘がこの家を訪ねてくる。そこで娘は、主人公がよく読んでいたディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』の話をする。幽霊みたいな人生、わたしのものであるはずの場所を誰かに盗られて、嫉ましくて仕方がないのにどうすることもできない、そんな自分の人生の主役になれない可能性が存在することについて話をされたことから、主人公自身が、隣人にある問いを投げかける勇気が持てなかったことを考える。「わたしが生きたはずの人生の数年間をおまえが生きたのか?」(212ページ)と。

 主人公の父親の台詞で、「痛いかどうかはな、自分で決めるんだ」(32ページ)というものがある。それは、主人公が自身でも何度か指針としているようなところが出てくるし、物語の最後もこの言葉で終わっている。十代の頃の「ぼく」の場面で、父からのお金で新しいスーツを買い、これから進むべき道を見えない矢印がはっきりと示してくれているような希望に満ちた時間だった。

 そうやって現在にいたるまでの約50年が過ぎたが、「わたし」の描写では今も娘が訪ねてきたことにとまどいを隠せないことや、隣人に対して、関わりたくない思いと好意を持ってしまう感情とで、平穏な日常に変化が出てきている。

 「この家はもう前と同じではなく、庭も前と同じではない」(215-216ページ)と書いているように、様々なことを乗り越えて、自身でコントロールできるよう移ってきたこの場所でも、まだ変化することを求められているような終わり方だった。

 

▶違う文化を味わうこと

 森や川の描写が印象的で、その中で生活したらこんな感じなのかもと思わせてくれた今回の読書会。描写から想像される景色や音、匂いなど、物語を味わう・違う文化を味わうことを皆で楽しめるのが、一人きりで読むこととの違いであるともいえる。

 次回の課題図書も、今回の特徴の一つでもあった「労働」と関連があるので、ぜひそのつながりで参加していただけたらと願う。(野)

 

 

▶次回の予告

第17回ノルウェー読書会 2023年9月9日(土)14:00〜16:00

ラース・スヴェンセン 著 小須田健 訳 『働くことの哲学』 紀伊國屋書店,2016年,1,700円+税