第20回 ヨースタイン・ゴルデル
『カードミステリー』読書会ノート
ヨースタイン・ゴルデル著、山内清子訳
『カードミステリー~失われた魔法の島~』
徳間書店、1996年、1,500円+税
♦ 最初の感想
11人の参加者(対面4人、Zoom7人)のなかには、「『ソフィーの世界』が書かれる前の作品として読んだ」という人をはじめ、「今朝、読み終えたところ」という人、「2回読んだ」という人が4人、「人生初の読書会」という参加者も3人おられました。
今回の課題本は、1991年に世界的ベストセラーとなった『ソフィーの世界』の作者が、その前年1990年に刊行し、ノルウェー批評家連盟賞、ノルウェー文化庁文学賞を受賞した作品です。ある年の夏、12歳の主人公ハンス-トマスは、4歳の時に家出した母親を探して、父親と二人でノルウェーからギリシャまでの大旅行に出かけます。
最初に地図で、ノルウェー国内での位置関係を確認しました。父と息子の自動車の旅の出発点となるアーレンダール(主人公の父親の出身地で、ノルウェー南西部の港町;東アグデル県の県庁所在地)や、国道E18を南下していくときに通るグリムスタ(若きイプセンが働いた薬屋のある街;クヌート・ハムスンが晩年に住んだ)、リレサン(オスロとともに『ソフィーの世界』の舞台になった小さな街;ここで暮らしたという参加者も)、クリスチャンサン(主人公の母親の出身地で、この港から大型フェリーがデンマークに出港する;西アグデル県の県庁所在地)など。
「『ソフィーの世界』は読み切れなかったが、『カードミステリー』は読み終えられた」という人もいれば、同様に「読書会があったので読み切れた」とか、「物語として面白い本を久しぶりに読むことができた」という感想も。また、作品の中で展開する2つの異なる物語について、「文字のフォントが2種類に分かれているので、《明朝体》で印刷された父と子の行程をたどる“地の文”の部分を先に読んでから、《丸ゴシック》で印刷された“トランプのカードの物語”(豆本)を後からまとめて読んだ」という人もいれば、「“地の文”の話はわかりにくかったが、《丸ゴシック》の“豆本”のところが楽しかった」という人もいて、まさに多様!
そのほかには、「梅田の本屋さんで、ゴルデルのサイン本が売れ残っていたので買ったが、本書巻末の著者挨拶文『日本の皆様へ』にあるサインとまったく同じサインだったよ」と語る人もいれば、「52枚のトランプから、このような話が創られるのがすごい!」という感想も出されました。
♠ 「ママ」と「お父さん」、そしてファンタジーと現実
まず、「ママに似た人の写真は、ほかのものよりずっといい」(19頁)という箇所について、「ママはまだ自分自身を見つけていないようだ……ママは他の人の真似をしようとしている。かわいそうなママ。ぼくもお父さんもそう思った」ことや、にもかかわらず、お父さんは「ママの写真を寝室の壁に掛けた」の示している意味は?という問いかけがなされました。
それに対しては、「自分自身を見つけること」(=哲学)の重要さを示しているとか、「お父さん」が今もママを愛していることが「ぼく」にも伝わっている(=家族の形成)のではないだろうか、という意見が出されました。
また、ファンタジーとの関わりについては、「豆本の箇所がすき」という声のほかに、「12歳の主人公ハンス-トマスと、39歳の酒飲みのお父さんとの関係性が面白かった」とか、「豆本のなかの“小人”は何も知らず、ジョーカーが真実を暴いていくのに惹かれた」のほかにも、「“出自”と“目覚めること”の関係が興味深かった」や、「翻訳が見事!だけれども、本文中に日本語のままで書かれた通りゃんせ、通りゃんせ”の原文はどうなっているの?」という問い、「父と子の移動シーンの叙述に“生活の匂い”がして、リアリティがある」などの感想が述べられました。
さらに、「ファンタジーであって、ファンタジーでないように思えた」とか、「ファンタジーと現実が、区別されずに展開されているのが特徴的だ」という指摘や、「現実の世界はすっきり完結しているが、ファンタジーの世界は終わっていないように思える」という意見が出されました。なるほど!
さらには、「お父さんはアル中では?」という質問には、「販売時間や曜日による販売制限あるなどノルウェーはお酒に厳しい国なので、ビールはスーパーでも買えても、ワインや、アクアビットなどスピリッツは、国営の酒屋“ヴィーンモノポール”に行かないと購入できないし、値段も高い」、「アーレンダールは、南部の“バイブルベルト”というキリスト教の影響力の強い地域で保守的な地域なのに、お酒を飲むの?」、「アーレンダールの街は、帆船時代の海運で栄えたところで豊かな船主たちもいるし、“柄が悪い”船乗りも多くいたという面もある」などの解説もなされました。
♥ 「哲学」の講義
「時の侵食」(262頁)の観念についてのお父さんの長い講義のなかで、「時は先へ進むものじゃないんだよ、……先に進んでいるのは我々で、時を刻んでいるのは我々の時計……時の臼歯の間ですりつぶされるのが我々なんだ」という箇所がわかりにくかったという声がありました。
この点については、その先に書かれている、「考えというのは、流れ去って行かないんだよ……。アテネの哲学者たちは、流され消されてしまわないものもあると考えた」、「おれたちの中には、時がかじることのできないものがある。だから、体は魂の本当の住みかではないんだよ。まわりで流れさって行くものに目を奪われないことが大事」というお父さんの話を受けて、息子が「哲学ってのは、ちょっとやそっとじゃわからないすごいものだということだけはわかった。……この地上に大昔から存在した物の中で、今日残っているのは、ごくわずかなんだろう。だが、人間の考えたことは、今日でも生き続けているんだ」と応えているのが素晴らしいという指摘も(264~5頁)。
ここには、著者の“哲学”についての思い入れがあるように思え、「ソクラテスは当時のアテネでただ一人のジョーカーだった」(266頁)という箇所などもあわせて考えると、この作品は読者に考えさせるファンタジーなのではないかという意見に、一同納得!
♣ ドイツ人への“悪口”
お父さんは、ノルウェー女性(母親)が恋をした「ドイツ兵下士官との間に産まれた子ども」として成長した。こうした設定もあってか、167頁にあるドイツ人についての悪口、すなわち「お腹の太ったドイツ人たちはセイウチみたい……焼いたソーセージを食べすぎてあんなに太ったんだ……(太ったドイツ人たちが)たいして意味のあることを考えているとは思えない」の箇所は、厳しい物言いとも思えるけれども、ノルウェーで暮らしたことのある経験者からは、「ドイツ人はキャンピングカーでやってきて、食べ物や飲み物はドイツから持ってくるのでお金を使うこともなく、逆に、ノルウェーの岩まで持って帰る」という話をノルウェーの知人が言うのを何度か聞いたことがあるという発言があり、別の地域で暮らした人からも「ゴミだけ置いて帰る」という同様の話が紹介されました。
また、父子の旅行中に立ち寄ったアルプスのドルフで出会ったパン屋の老人の話から、主人公は老人が自分の祖父であり、「ドルフのパン屋さんが、お父さんの実の父親なんだ」と父親に告げる場面(346頁)があります。半信半疑だった父親も、第二次世界大戦中にドイツ軍がノルウェーに侵攻してきた歴史を思い起こして、ノルウェーに住む自分の母親に電話をしますが、おばあちゃんは突然アルプスのドルフに向けて旅に出た後だった、というカードが予言した未来そのままのドラマティックな展開が入れ込まれています。1944年の夏、17歳だったおばあちゃんが、どんなにドイツ兵下士官に恋い焦がれたかを示すこのエピソードにより、ヒットラーのドイツに占領された歴史を有するという辛い背景から、単なるドイツ人への“悪口”とは少し異なる印象を受けました。
♦ ギリシャと“哲学”と運命をめぐって
「ギリシャ人の背が低い」という表現が出てくるが、何か意図はあるの?という問いに対しては、北欧のノルウェー人の平均身長は高いので(男性180㎝、女性170㎝)、それにくらべると南欧のギリシャ人の身長は低いという事実を述べているだけではないかとか、ギリシャは「哲学の生まれた国」として、この本でもっとも尊敬している国ではないかという意見が出されました。ほかにも、美しい奥さんがギリシャでファッションモデルをしているのはなぜ?という問いもありました。
読書会メンバーの一人が作成した「ハンスとお父さんの大旅行ルート」(ノルウェー→デンマーク→ドイツ→スイス→イタリア→ギリシャ;欧州自動車道4,110キロ)の地図をみると、「移動が、哲学の伝播の歴史を逆に遡っているので面白かった」という感想や、ギリシャへ向かう途中の「アドリア海を見ながらの旅は美しかった」という経験とか、「ペールギュントの逆」の道行きになっているという指摘もありました。ほかにも、「ノルウェーでは、大学に入ると哲学の授業があるので、言語の壁だけではなく、哲学の素養がないと置いてきぼりにされた感じがした」などの経験談が話されました。
196頁で、お父さんは「アーレンダールの成人学校で哲学史の講義に出席した」とあるように、日本とは違ってノルウェーでは“哲学”が重視されているし、著者のゴルデル自身も高校の哲学教師をしながら『ソフィーの世界』を執筆したことも話題に。
さらに、「人生を生きる上で哲学が役に立つという合意がノルウェーにはある」とか、「人生の捉え方が日本とは違うのでは」という意見をはじめ、「自分は何者で、どこから来たのか?」といった難しい問いに関する「お父さんとの哲学話が自然に描かれている」とい指摘や、「父親の言うことを息子がよく聞いているし、相互に尊重しあっている」ところ(例えば、220頁の「ハンス-トマス。おまえもいつかきっと哲学者になるよ」など)に惹きつけられたという声も。
また、220頁には、地図を見ていた父親が、「ここ(テーベ)で、オイデュプスが自分の父親を殺したんだ」ということから、「運命のこと」すなわち「家系の因縁」について話そうということになって、18世紀から幾重にも連なるハンス-トマスとお父さんの家系を想起させるとともに、「父親からの自立」がテーマになっている展開のように思えるという感想がありました。
そして、「30年前はこうだったんだ! 今だったら、子どもは後部座席でゲームをしてるし、休憩中にはお父さんはスマホをいじっている」という指摘や、「原著は1990年に書かれているので、“ウィンドウズ95”の発売で世界が繋がる以前に書かれたもの」とか、「最近、フランスで漫画になった『ソフィーの世界』の邦訳では、ソフィーは“スマホ”を持っている!」や、「時代設定すらファンタジーになっている」などの意見が出されました。
ほかにも、「現実がこんなにうまくまとまるのがファンタジー」とか、「古代ギリシャ人たちは、運命に反したことをすれば罰を受けると思っていた」(221頁)とあるが、「哲学の世界では“運命”は否定されるのでは?」という問いかけ、また、「今朝の『朝日新聞』(2024年5月25日)の天声人語に、ドイツ兵と付き合ったフランス女性が戦後丸刈りにされるロバート・キャパの写真のことが書かれていて、この本を読むのは運命ではないかと思った」という話も紹介されました。
♠ ノルウェー人について
「ノルウェー人には“みなまで言わない”ところがあって、余白を残す人たち。人間関係がさらっとしているところに、リアリティがある」とか、「昔も今も、人柄に差が無いところがあって、ウェットになりすぎないのがノルウェー人らしいところ」という観察のほかに、「ノルウェー人と接することで、ノルウェーという国が好きになった」という人も。
これらの話題からは、290~91頁にあるジョーカーの語りのところで、「(ハートでもダイヤでもなければ、クラブでもスペードでもない)あっしは自分自身を見つけなければならなかった。……(仲間がいない、仕事もない)あっしは、みんなの仕事を外から見るだけだった。だからこそ、みんなに見えないことが見えるようになった」という自己分析や、「ジョーカー(である自分)は、欠点を持っているからこそ、ずっと深く、ずっとよく見ることができる」だけでなく「あっし自身が見えるんです」、さらには「見ているだけじゃなく……感じることもできるんです」という叙述からも知れるように、《どこにも属さず、自分自身を見つける》→《孤独であるが故に、みんなに見えないことが見える》→《欠点があるから、深く見える》→《見えるだけでなく、感じることができる》という、ノルウェー人がそなえている哲学的な素養(=大自然とともにある個人)のようにも思えるという意見が出されました。
そうだけれど、あっしは「かりそめの生きた人形」なんだとして、「この人形はどこから来たの」と自問を続け、「あっしは生きているんだ」とジョーカーが両手を広げる箇所(291頁)が印象的だったという意見のほか、ここでは、「みんな、天の下の、不思議な物語の世界で生きている」と外からものを見ているので、哲学でもあるしファンタジーでもある感じが伝わってくるという指摘もありました。
♥ 考えることと「不思議な人形人間」
「額を集めて考える」(292頁)という箇所にも、いろんな意見が出ました。
ハートのキングからの「どこから来たのか」という問いについてジョーカーは、「一人一人が解いてみる」ことからはじめるほかないのだけれども、「どの人もその謎のごく限られた小さな部分しか解けない」ので、「どんなちっぽけなことを考えるにも、額を集めなきゃならない」としていますが、その原因については美味に誘われて過剰に摂取すると日常の感覚を失ってしまうという不思議な飲み物「プルプルソーダを飲みすぎたせい」とされています。すなわち、「プルプルソーダを飲めば……自分たちが生きていることも考えない」と。同様に、「食べるものに夢中の人は……自分が不思議な人形人間なんだということも忘れる」ので、真実を感じることができないとも。ここでは、ジョーカーは自分が「不思議な人形人間」だとして(292頁)、フローデ老人(地図にない島に漂流し、はじめてトランプのカードたちに出会う;トランプたちのマスター)も「不思議な人形人間」なんだと述べています(293頁)。
すなわち、「人はどこから来たのか」というような根本的な問いは、額を集めて皆で考えるしかないのだけれど、その問いに対して、食べ物や飲み物に夢中で欲にとらわれた人たちには「聞く耳を持つ人」はいなかったと(292頁)。
本文を通じて、「ぼく自身の今の生活と、パン屋のハンスやアルベルトやルートヴィッヒが分け合っているすごい秘密との間に、不思議なつながりがある」(137頁)という提起と、「ドルフでぼくが会ったパン屋の老人は誰」(同)という問いが投げかれられ続けます。
作中、フローデ老人の孫のハンスも時を経て魔法の島に漂流しますが、のちにジョーカーとともに島を脱出してアーレンダールの帆船に救助されてマルセイユへ着きます。そして、ジョーカーと別れた後、たまたまドルフにやって来て、「あまりにも不思議なことを経験したから、残りの生涯はそのことを考えて過ごすことになるだろう」と思っていたところに、ドルフにはパン屋がなかったことから、幼い頃リューベックで父親のパン屋の見習いをしていた経験を活かし、ドルフに落ち着くことにしたのだというのです(311~12頁)。
主人公ハンス-トマスにお父さんは、「たった1本の偶然の鎖が、3~40億年の間一度も切れないでいる。……おかげで、おれは、夢のような幸せを感じている」(140頁)と言って、「不幸なものは生まれてないから、不幸なものはいない」(141頁)と悟ったように語ります。そうして、人には「一番不思議なことが見えていないんだ。――つまり、この世が“ある”ということがね」とささやきます。つまり、「自分の足元に広がるこの謎に満ちた神の創造物を見ようとしない。おれは、この世は、偶然ではないと思っているよ」というメッセージを発しています(142頁)。
「偶然ではない」ことを強調するこうした展開からは、<ファンタジーと現実>という対立ではなくて“不思議さ”を強調している作品ではないかという意見が出され、みなさんなるほどと賛同されました。
♣ <世の中=生きること>に慣れるということ
「私たち人間は生きるというとても不思議なことに、慣れっこになってしまっている」という大きな問いかけをして、「私たちは、自分が存在しているということを当たり前のことだと思ってしまう。そして、そのことを考えないまま、この世を立ち去ってしまう」と述べています(352頁)。その前段では、「子どものうちは、自分の周りをゆっくり見る能力があった。けれど、世の中に慣れてしまう。成長するということは、感覚の経験に酔ってしまうことなのかもしれない」とも(350頁)。
この「酔ってしまう」ということに関係しているのがプルプルソーダ。本文中では、「もしあの不思議な飲み物を飲み続けていたら、今のこの経験はだんだん消えていって、とうとうすっかりなくなってしまうだろう」ということで、「人生で初めて、人間とは何であるかがわかった」としています(350頁)。さらには、フローデ老人(オットーの父で1790年に地図にない島に漂流;トランプたちのマスター)とジョーカーが、魔法の島の小人たちと違って「プルプルソーダを飲むのをやめたことが勝利につながった」とも記されています(351頁)。お酒が好きな人にとっては、頭の痛い箇所という感想も。
つまり、毎日強い飲み物を飲むことに時間を費やしたり、この世のありとあらゆる味に夢中になったりして、自分が存在しているということを忘れてしまうようになってはならない、との戒めではないかと。
主人公のお母さんはクリスチャンサンのモデル、お父さんはアーレンダールの船乗りですが、➀どうして8年前に4歳の子どもを残して母親は家出をしたのか? ➁なのに、あっさり帰ってきたのはどうしてか? ➂「お母さんはファッション界でも迷子になっている」というのはどういうことか? ➃息子と抱き合ってから、帰る決心をしたのはどうしてか? ➄宣伝文にあった「母を探す」のが中心ではなく、“迷子”というところに力点があるのでは? ➅4歳で母親がいなくなるのは運命なの? という疑問が出されました。
その他には、➆ギリシャからの哲学の発展の歴史の逆をたどっているのが興味深い、➇E18の自動車専用道路(制限80キロ)でノルウェーからずっとたどっていけている、➈「赤いフィアット」というのが映像的に青い空やアドリア海と対比され印象深い、➉父親は海を見てフェリーに乗ることを選択するというように、アドリア海のシーンがロマンティックに書かれている、⑪バルカン半島に住んでいたことがあるので、美しいユーゴスラビアの道を通るのかと期待していた、などの感想もありました。
♦ 最後にひとこと
・ノルウェーについて知りたくて読んだ。「ノルウェー読書会」のブログにあった『ノルゲ』のまとめも読んだが、ブログがとても面白かった。
・もう一度、読み直してみたい。日本人はお金がないと不幸と思っているが、ノルウェー人は自然の中で身体を動かすことで充実感を感じていて、この違いは大きい。
・初めての参加で不安だったが、たくさんのヒントをもらった。ノルウェーを理解するには、文化的な背景や歴史、地理を知ることが関係していると実感した。
・『アドヴェント・カレンダー~24日間の不思議な旅~』と同じく“入れ子構造”で、旅がえがかれている。「北欧の神秘の美術展」を観てきたが、フランスとの違いがわかった。
・みなさんの視点を聞くのは楽しい。読書会って良いな!と思った。ゴルデル=『ソフィーの世界』という印象が強いが、違った側面を知ることができた。もうすぐ、ゴルデルの最新刊『未来のソフィーたちへ~「生きること」の哲学~』(NHK出版、2024年7月)が読めるのが楽しみ。
・現実と豆本部分に分けて読むのではなく、最初から通して読みたい。また、読書会で取り上げたどの本を読んでも、こういうところがノルウェーだと思える箇所があるのは面白い。それを見つけるのが読書会なのかも。
・若い人向けの哲学の本として面白い。お母さんの自分探しのことは、作家は重視していないので気にしなくてもよいのでは? ゴルデルはフォッセと違うタイプで、話しがあちらこちら“とっちらかっている”のが特徴。
・本のデザイナーへの注文だが、ページ数の書き方で、中央下部のページ数にトランプのマークが記してあるのは、読む際に目に入ってきて気になって読みにくい。また、各章の冒頭におかれたせっかくの挿絵(トランプの中央部)が小さくてみにくい。185頁のトランプ52枚はステレオタイプに書かれすぎているかも? ノルウェー人の友人も、父親として子どもに対してどこか大人(=人生の先輩)としての“自信”のようなものを持っていると感じる。たとえば、家の修理だろうが魚をさばくことだろうが、自分で何でもこなせるという生活(=生きていくこと)の技の取得と関わっているかも。
・めちゃくちゃ楽しい読書会でした。父親がやや説教くさく感じた。海外での生活を経験した人の話が面白かった。
・いろんな読み方があると思った。
・自分の頭で考える。読書会は、答え合わせではなく、みんなの意見を聞けるのが良い。最近出版された漫画の『グラフィック版 ソフィーの世界~哲学者からの不思議な手紙~』(上・下、NHK出版、2024年5月)では、ソフィーがなんと携帯電話を持っているそうなので、ぜひ読んでみたい。
ということで、次の読書への期待を抱きつつ、2時間の読書会が終わりました。(掛)
*なお、本文からの引用は、読みやすくするために簡略にした箇所があります。