22th ノルウェー読書会のお知らせ 『野がも』

22th ノルウェー読書会のお知らせです。

12月21日(土)の第22回ノルウェー読書会は、イプセン作/毛利三彌訳『野がも 』(論創社、2024)を取り上げます。

 「近代劇の父」と呼ばれるノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンは、2028年に生誕200年を迎えます。このイプセン・イヤーまでにさまざまなイプセン作品に触れてみませんか。今回は『野がも』を取り上げます。ふるってご参加ください。

詳細は下記のチラシをご覧ください。

お申込みはこちらから→ https://forms.gle/UtPD1qDNPLJXP9Tu7

 

 

第21回 ノルウェー読書会のお知らせ『私はカーリ、64歳で生まれた ー Nowhere's Child 』

21th ノルウェー読書会のお知らせです。

 

9月7日(土)の第20回ノルウェー読書会は、カーリ・ロースヴァル著/速水 望訳『私はカーリ、64歳で生まれたー Nowhere's Child 』(海象社、2021)を取り上げます。

自分の出自を追い続けたあるノルウェーの女性の半生の実話です。「この本を読んで二度と戦争を繰り返してはならないと感じ取ってください」という著者カーリの強い思いが込められています。ご一緒に読んでみませんか。

詳細は下記のチラシをご覧ください。

 

第20回 ヨースタイン・ゴルデル

カードミステリー』読書会ノート

 

ヨースタイン・ゴルデル著、山内清子訳

カードミステリー~失われた魔法の島~』

徳間書店、1996年、1,500円+税

 

 最初の感想

11人の参加者(対面4人、Zoom7人)のなかには、「『ソフィーの世界』が書かれる前の作品として読んだ」という人をはじめ、「今朝、読み終えたところ」という人、「2回読んだ」という人が4人、「人生初の読書会」という参加者も3人おられました。

今回の課題本は、1991年に世界的ベストセラーとなった『ソフィーの世界』の作者が、その前年1990年に刊行し、ノルウェー批評家連盟賞、ノルウェー文化庁文学賞を受賞した作品です。ある年の夏、12歳の主人公ハンス-トマスは、4歳の時に家出した母親を探して、父親と二人でノルウェーからギリシャまでの大旅行に出かけます。

最初に地図で、ノルウェー国内での位置関係を確認しました。父と息子の自動車の旅の出発点となるアーレンダール(主人公の父親の出身地で、ノルウェー南西部の港町;東アグデル県の県庁所在地)や、国道E18を南下していくときに通るグリムスタ(若きイプセンが働いた薬屋のある街;クヌート・ハムスンが晩年に住んだ)、リレサン(オスロとともに『ソフィーの世界』の舞台になった小さな街;ここで暮らしたという参加者も)、クリスチャンサン(主人公の母親の出身地で、この港から大型フェリーがデンマークに出港する;西アグデル県の県庁所在地)など。

「『ソフィーの世界』は読み切れなかったが、『カードミステリー』は読み終えられた」という人もいれば、同様に「読書会があったので読み切れた」とか、「物語として面白い本を久しぶりに読むことができた」という感想も。また、作品の中で展開する2つの異なる物語について、「文字のフォントが2種類に分かれているので、明朝体で印刷された父と子の行程をたどる“地の文”の部分を先に読んでから、丸ゴシック》で印刷された“トランプのカードの物語”(豆本)を後からまとめて読んだ」という人もいれば、「“地の文”の話はわかりにくかったが、《丸ゴシック》の“豆本”のところが楽しかった」という人もいて、まさに多様!

そのほかには、「梅田の本屋さんで、ゴルデルのサイン本が売れ残っていたので買ったが、本書巻末の著者挨拶文『日本の皆様へ』にあるサインとまったく同じサインだったよ」と語る人もいれば、「52枚のトランプから、このような話が創られるのがすごい!」という感想も出されました。

 

♠ 「ママ」と「お父さん」、そしてファンタジーと現実

まず、「ママに似た人の写真は、ほかのものよりずっといい」(19頁)という箇所について、「ママはまだ自分自身を見つけていないようだ……ママは他の人の真似をしようとしている。かわいそうなママ。ぼくもお父さんもそう思った」ことや、にもかかわらず、お父さんは「ママの写真を寝室の壁に掛けた」の示している意味は?という問いかけがなされました。

それに対しては、「自分自身を見つけること」(=哲学)の重要さを示しているとか、「お父さん」が今もママを愛していることが「ぼく」にも伝わっている(=家族の形成)のではないだろうか、という意見が出されました。

また、ファンタジーとの関わりについては、「豆本の箇所がすき」という声のほかに、「12歳の主人公ハンス-トマスと、39歳の酒飲みのお父さんとの関係性が面白かった」とか、「豆本のなかの“小人”は何も知らず、ジョーカーが真実を暴いていくのに惹かれた」のほかにも、「“出自”と“目覚めること”の関係が興味深かった」や、「翻訳が見事!だけれども、本文中に日本語のままで書かれた通りゃんせ、通りゃんせ”の原文はどうなっているの?」という問い、「父と子の移動シーンの叙述に“生活の匂い”がして、リアリティがある」などの感想が述べられました。

さらに、「ファンタジーであって、ファンタジーでないように思えた」とか、「ファンタジーと現実が、区別されずに展開されているのが特徴的だ」という指摘や、「現実の世界はすっきり完結しているが、ファンタジーの世界は終わっていないように思える」という意見が出されました。なるほど!

さらには、「お父さんはアル中では?」という質問には、「販売時間や曜日による販売制限あるなどノルウェーはお酒に厳しい国なので、ビールはスーパーでも買えても、ワインや、アクアビットなどスピリッツは、国営の酒屋“ヴィーンモノポール”に行かないと購入できないし、値段も高い」、「アーレンダールは、南部の“バイブルベルト”というキリスト教の影響力の強い地域で保守的な地域なのに、お酒を飲むの?」、「アーレンダールの街は、帆船時代の海運で栄えたところで豊かな船主たちもいるし、“柄が悪い”船乗りも多くいたという面もある」などの解説もなされました。

 

♥ 「哲学」の講義

「時の侵食」(262頁)の観念についてのお父さんの長い講義のなかで、「時は先へ進むものじゃないんだよ、……先に進んでいるのは我々で、時を刻んでいるのは我々の時計……時の臼歯の間ですりつぶされるのが我々なんだ」という箇所がわかりにくかったという声がありました。

この点については、その先に書かれている、「考えというのは、流れ去って行かないんだよ……。アテネの哲学者たちは、流され消されてしまわないものもあると考えた」、「おれたちの中には、時がかじることのできないものがある。だから、体は魂の本当の住みかではないんだよ。まわりで流れさって行くものに目を奪われないことが大事」というお父さんの話を受けて、息子が「哲学ってのは、ちょっとやそっとじゃわからないすごいものだということだけはわかった。……この地上に大昔から存在した物の中で、今日残っているのは、ごくわずかなんだろう。だが、人間の考えたことは、今日でも生き続けているんだ」と応えているのが素晴らしいという指摘も(264~5頁)。

ここには、著者の“哲学”についての思い入れがあるように思え、「ソクラテスは当時のアテネでただ一人のジョーカーだった」(266頁)という箇所などもあわせて考えると、この作品は読者に考えさせるファンタジーなのではないかという意見に、一同納得!

 

♣ ドイツ人への“悪口”

お父さんは、ノルウェー女性(母親)が恋をした「ドイツ兵下士官との間に産まれた子ども」として成長した。こうした設定もあってか、167頁にあるドイツ人についての悪口、すなわち「お腹の太ったドイツ人たちはセイウチみたい……焼いたソーセージを食べすぎてあんなに太ったんだ……(太ったドイツ人たちが)たいして意味のあることを考えているとは思えない」の箇所は、厳しい物言いとも思えるけれども、ノルウェーで暮らしたことのある経験者からは、「ドイツ人はキャンピングカーでやってきて、食べ物や飲み物はドイツから持ってくるのでお金を使うこともなく、逆に、ノルウェーの岩まで持って帰る」という話をノルウェーの知人が言うのを何度か聞いたことがあるという発言があり、別の地域で暮らした人からも「ゴミだけ置いて帰る」という同様の話が紹介されました。

また、父子の旅行中に立ち寄ったアルプスのドルフで出会ったパン屋の老人の話から、主人公は老人が自分の祖父であり、「ドルフのパン屋さんが、お父さんの実の父親なんだ」と父親に告げる場面(346頁)があります。半信半疑だった父親も、第二次世界大戦中にドイツ軍がノルウェーに侵攻してきた歴史を思い起こして、ノルウェーに住む自分の母親に電話をしますが、おばあちゃんは突然アルプスのドルフに向けて旅に出た後だった、というカードが予言した未来そのままのドラマティックな展開が入れ込まれています。1944年の夏、17歳だったおばあちゃんが、どんなにドイツ兵下士官に恋い焦がれたかを示すこのエピソードにより、ヒットラーのドイツに占領された歴史を有するという辛い背景から、単なるドイツ人への“悪口”とは少し異なる印象を受けました。

 

 ギリシャと“哲学”と運命をめぐって

ギリシャ人の背が低い」という表現が出てくるが、何か意図はあるの?という問いに対しては、北欧のノルウェー人の平均身長は高いので(男性180㎝、女性170㎝)、それにくらべると南欧ギリシャ人の身長は低いという事実を述べているだけではないかとか、ギリシャは「哲学の生まれた国」として、この本でもっとも尊敬している国ではないかという意見が出されました。ほかにも、美しい奥さんがギリシャでファッションモデルをしているのはなぜ?という問いもありました。

読書会メンバーの一人が作成した「ハンスとお父さんの大旅行ルート」(ノルウェーデンマーク→ドイツ→スイス→イタリア→ギリシャ;欧州自動車道4,110キロ)の地図をみると、「移動が、哲学の伝播の歴史を逆に遡っているので面白かった」という感想や、ギリシャへ向かう途中の「アドリア海を見ながらの旅は美しかった」という経験とか、「ペールギュントの逆」の道行きになっているという指摘もありました。ほかにも、「ノルウェーでは、大学に入ると哲学の授業があるので、言語の壁だけではなく、哲学の素養がないと置いてきぼりにされた感じがした」などの経験談が話されました。

196頁で、お父さんは「アーレンダールの成人学校で哲学史の講義に出席した」とあるように、日本とは違ってノルウェーでは“哲学”が重視されているし、著者のゴルデル自身も高校の哲学教師をしながら『ソフィーの世界』を執筆したことも話題に。

さらに、「人生を生きる上で哲学が役に立つという合意がノルウェーにはある」とか、「人生の捉え方が日本とは違うのでは」という意見をはじめ、「自分は何者で、どこから来たのか?」といった難しい問いに関する「お父さんとの哲学話が自然に描かれている」とい指摘や、「父親の言うことを息子がよく聞いているし、相互に尊重しあっている」ところ(例えば、220頁の「ハンス-トマス。おまえもいつかきっと哲学者になるよ」など)に惹きつけられたという声も。 

また、220頁には、地図を見ていた父親が、「ここ(テーベ)で、オイデュプスが自分の父親を殺したんだ」ということから、「運命のこと」すなわち「家系の因縁」について話そうということになって、18世紀から幾重にも連なるハンス-トマスとお父さんの家系を想起させるとともに、「父親からの自立」がテーマになっている展開のように思えるという感想がありました。

そして、「30年前はこうだったんだ! 今だったら、子どもは後部座席でゲームをしてるし、休憩中にはお父さんはスマホをいじっている」という指摘や、「原著は1990年に書かれているので、“ウィンドウズ95”の発売で世界が繋がる以前に書かれたもの」とか、「最近、フランスで漫画になった『ソフィーの世界』の邦訳では、ソフィーは“スマホ”を持っている!」や、「時代設定すらファンタジーになっている」などの意見が出されました。

ほかにも、「現実がこんなにうまくまとまるのがファンタジー」とか、「古代ギリシャ人たちは、運命に反したことをすれば罰を受けると思っていた」(221頁)とあるが、「哲学の世界では“運命”は否定されるのでは?」という問いかけ、また、「今朝の『朝日新聞』(2024年5月25日)の天声人語に、ドイツ兵と付き合ったフランス女性が戦後丸刈りにされるロバート・キャパの写真のことが書かれていて、この本を読むのは運命ではないかと思った」という話も紹介されました。

 

♠ ノルウェー人について

ノルウェー人には“みなまで言わない”ところがあって、余白を残す人たち。人間関係がさらっとしているところに、リアリティがある」とか、「昔も今も、人柄に差が無いところがあって、ウェットになりすぎないのがノルウェー人らしいところ」という観察のほかに、「ノルウェー人と接することで、ノルウェーという国が好きになった」という人も。

 これらの話題からは、290~91頁にあるジョーカーの語りのところで、「(ハートでもダイヤでもなければ、クラブでもスペードでもない)あっしは自分自身を見つけなければならなかった。……(仲間がいない、仕事もない)あっしは、みんなの仕事を外から見るだけだった。だからこそ、みんなに見えないことが見えるようになった」という自己分析や、「ジョーカー(である自分)は、欠点を持っているからこそ、ずっと深く、ずっとよく見ることができる」だけでなく「あっし自身が見えるんです」、さらには「見ているだけじゃなく……感じることもできるんです」という叙述からも知れるように、《どこにも属さず、自分自身を見つける》→《孤独であるが故に、みんなに見えないことが見える》→《欠点があるから、深く見える》→《見えるだけでなく、感じることができる》という、ノルウェー人がそなえている哲学的な素養(=大自然とともにある個人)のようにも思えるという意見が出されました。

そうだけれど、あっしは「かりそめの生きた人形」なんだとして、「この人形はどこから来たの」と自問を続け、「あっしは生きているんだ」とジョーカーが両手を広げる箇所(291頁)が印象的だったという意見のほか、ここでは、「みんな、天の下の、不思議な物語の世界で生きている」と外からものを見ているので、哲学でもあるしファンタジーでもある感じが伝わってくるという指摘もありました。

 

 考えることと「不思議な人形人間」

「額を集めて考える」(292頁)という箇所にも、いろんな意見が出ました。

ハートのキングからの「どこから来たのか」という問いについてジョーカーは、「一人一人が解いてみる」ことからはじめるほかないのだけれども、「どの人もその謎のごく限られた小さな部分しか解けない」ので、「どんなちっぽけなことを考えるにも、額を集めなきゃならない」としていますが、その原因については美味に誘われて過剰に摂取すると日常の感覚を失ってしまうという不思議な飲み物「プルプルソーダを飲みすぎたせい」とされています。すなわち、「プルプルソーダを飲めば……自分たちが生きていることも考えない」と。同様に、「食べるものに夢中の人は……自分が不思議な人形人間なんだということも忘れる」ので、真実を感じることができないとも。ここでは、ジョーカーは自分が「不思議な人形人間」だとして(292頁)、フローデ老人(地図にない島に漂流し、はじめてトランプのカードたちに出会う;トランプたちのマスター)も「不思議な人形人間」なんだと述べています(293頁)。

すなわち、「人はどこから来たのか」というような根本的な問いは、額を集めて皆で考えるしかないのだけれど、その問いに対して、食べ物や飲み物に夢中で欲にとらわれた人たちには「聞く耳を持つ人」はいなかったと(292頁)。

本文を通じて、「ぼく自身の今の生活と、パン屋のハンスやアルベルトやルートヴィッヒが分け合っているすごい秘密との間に、不思議なつながりがある」(137頁)という提起と、「ドルフでぼくが会ったパン屋の老人は誰」(同)という問いが投げかれられ続けます。

作中、フローデ老人の孫のハンスも時を経て魔法の島に漂流しますが、のちにジョーカーとともに島を脱出してアーレンダールの帆船に救助されてマルセイユへ着きます。そして、ジョーカーと別れた後、たまたまドルフにやって来て、「あまりにも不思議なことを経験したから、残りの生涯はそのことを考えて過ごすことになるだろう」と思っていたところに、ドルフにはパン屋がなかったことから、幼い頃リューベックで父親のパン屋の見習いをしていた経験を活かし、ドルフに落ち着くことにしたのだというのです(311~12頁)。

主人公ハンス-トマスにお父さんは、「たった1本の偶然の鎖が、3~40億年の間一度も切れないでいる。……おかげで、おれは、夢のような幸せを感じている」(140頁)と言って、「不幸なものは生まれてないから、不幸なものはいない」(141頁)と悟ったように語ります。そうして、人には「一番不思議なことが見えていないんだ。――つまり、この世が“ある”ということがね」とささやきます。つまり、「自分の足元に広がるこの謎に満ちた神の創造物を見ようとしない。おれは、この世は、偶然ではないと思っているよ」というメッセージを発しています(142頁)。

「偶然ではない」ことを強調するこうした展開からは、<ファンタジーと現実>という対立ではなくて“不思議さ”を強調している作品ではないかという意見が出され、みなさんなるほどと賛同されました。

 

♣ <世の中=生きること>に慣れるということ

「私たち人間は生きるというとても不思議なことに、慣れっこになってしまっている」という大きな問いかけをして、「私たちは、自分が存在しているということを当たり前のことだと思ってしまう。そして、そのことを考えないまま、この世を立ち去ってしまう」と述べています(352頁)。その前段では、「子どものうちは、自分の周りをゆっくり見る能力があった。けれど、世の中に慣れてしまう。成長するということは、感覚の経験に酔ってしまうことなのかもしれない」とも(350頁)。

この「酔ってしまう」ということに関係しているのがプルプルソーダ。本文中では、「もしあの不思議な飲み物を飲み続けていたら、今のこの経験はだんだん消えていって、とうとうすっかりなくなってしまうだろう」ということで、「人生で初めて、人間とは何であるかがわかった」としています(350頁)。さらには、フローデ老人(オットーの父で1790年に地図にない島に漂流;トランプたちのマスター)とジョーカーが、魔法の島の小人たちと違って「プルプルソーダを飲むのをやめたことが勝利につながった」とも記されています(351頁)。お酒が好きな人にとっては、頭の痛い箇所という感想も。

つまり、毎日強い飲み物を飲むことに時間を費やしたり、この世のありとあらゆる味に夢中になったりして、自分が存在しているということを忘れてしまうようになってはならない、との戒めではないかと。

主人公のお母さんはクリスチャンサンのモデル、お父さんはアーレンダールの船乗りですが、➀どうして8年前に4歳の子どもを残して母親は家出をしたのか? ➁なのに、あっさり帰ってきたのはどうしてか? ➂「お母さんはファッション界でも迷子になっている」というのはどういうことか? ➃息子と抱き合ってから、帰る決心をしたのはどうしてか? ➄宣伝文にあった「母を探す」のが中心ではなく、“迷子”というところに力点があるのでは? ➅4歳で母親がいなくなるのは運命なの? という疑問が出されました。

その他には、➆ギリシャからの哲学の発展の歴史の逆をたどっているのが興味深い、➇E18の自動車専用道路(制限80キロ)でノルウェーからずっとたどっていけている、➈「赤いフィアット」というのが映像的に青い空やアドリア海と対比され印象深い、➉父親は海を見てフェリーに乗ることを選択するというように、アドリア海のシーンがロマンティックに書かれている、⑪バルカン半島に住んでいたことがあるので、美しいユーゴスラビアの道を通るのかと期待していた、などの感想もありました。

 

 最後にひとこと

ノルウェーについて知りたくて読んだ。「ノルウェー読書会」のブログにあった『ノルゲ』のまとめも読んだが、ブログがとても面白かった。

・もう一度、読み直してみたい。日本人はお金がないと不幸と思っているが、ノルウェー人は自然の中で身体を動かすことで充実感を感じていて、この違いは大きい。

・初めての参加で不安だったが、たくさんのヒントをもらった。ノルウェーを理解するには、文化的な背景や歴史、地理を知ることが関係していると実感した。

・『アドヴェント・カレンダー~24日間の不思議な旅~』と同じく“入れ子構造”で、旅がえがかれている。「北欧の神秘の美術展」を観てきたが、フランスとの違いがわかった。

・みなさんの視点を聞くのは楽しい。読書会って良いな!と思った。ゴルデル=『ソフィーの世界』という印象が強いが、違った側面を知ることができた。もうすぐ、ゴルデルの最新刊『未来のソフィーたちへ~「生きること」の哲学~』(NHK出版、2024年7月)が読めるのが楽しみ。

・現実と豆本部分に分けて読むのではなく、最初から通して読みたい。また、読書会で取り上げたどの本を読んでも、こういうところがノルウェーだと思える箇所があるのは面白い。それを見つけるのが読書会なのかも。

・若い人向けの哲学の本として面白い。お母さんの自分探しのことは、作家は重視していないので気にしなくてもよいのでは? ゴルデルはフォッセと違うタイプで、話しがあちらこちら“とっちらかっている”のが特徴。

・本のデザイナーへの注文だが、ページ数の書き方で、中央下部のページ数にトランプのマークが記してあるのは、読む際に目に入ってきて気になって読みにくい。また、各章の冒頭におかれたせっかくの挿絵(トランプの中央部)が小さくてみにくい。185頁のトランプ52枚はステレオタイプに書かれすぎているかも? ノルウェー人の友人も、父親として子どもに対してどこか大人(=人生の先輩)としての“自信”のようなものを持っていると感じる。たとえば、家の修理だろうが魚をさばくことだろうが、自分で何でもこなせるという生活(=生きていくこと)の技の取得と関わっているかも。

・めちゃくちゃ楽しい読書会でした。父親がやや説教くさく感じた。海外での生活を経験した人の話が面白かった。

・いろんな読み方があると思った。

・自分の頭で考える。読書会は、答え合わせではなく、みんなの意見を聞けるのが良い。最近出版された漫画の『グラフィック版 ソフィーの世界~哲学者からの不思議な手紙~』(上・下、NHK出版、2024年5月)では、ソフィーがなんと携帯電話を持っているそうなので、ぜひ読んでみたい。

ということで、次の読書への期待を抱きつつ、2時間の読書会が終わりました。(掛)

 

 *なお、本文からの引用は、読みやすくするために簡略にした箇所があります。

第19回 『フリチョフ・ナンセン 極北探検家から「難民の父」へ』読書会ノート

『フリチョフ・ナンセン 極北探検家から「難民の父」へ』  新垣 修 著

2022 太郎次郎社エディタス

 

■はじめの感想

今回は8名(会場4名、オンライン4名)での読書会でした。参加者の半数近くが「ナンセンは今回の課題本で初めて知った名前だった」とのことで、フリチョフ・ナンセン(1861-1930)は日本ではそれほどよく知られた存在ではないことがわかりました。ナンセンの名を聞いたことのある参加者も、「ノルウェーの探検家といえば、ナンセン、アムンゼンハイエルダール。なかでもノルウェーで一番尊敬されているイメージだったのがナンセン。その理由がよくわかった」、「ナンセンは探検家としてしか知らなかったので、多方面の活動を知った」と、とくにナンセンの人生後半部分についての発見が大きかったようです。ノルウェーの首都オスロには、市庁舎前にその名を冠したフリチョフ・ナンセン広場もあるそうで、どれほどの偉人であるかがうかがわれます。

著者の新垣修さんは国際基督教大学の教授で、評伝を書くことの難しさとやりがいを感じていたとのことですが、「文章が非常に読みやすく、読み始めるとすっとその世界に入っていける」という声に全員がうなずきました。「著者の人生観と重なるのでは?と感じる表現が随所に見られたのも印象的」、「励まされることばがたくさんあった」などの感想が聞かれました。

 

■ナンセンの幼少期とノルウェー流の子育て

ノルウェー全体がまだ貧しかった時代に生まれたナンセンですが、両親はともに名家の出で、質素な日常生活ながらも、比較的恵まれた幼少期を送りました。父親がナンセンを厳しくしつけたという記述について「ノルウェーにおける厳しいしつけとは?」という質問が出ました。子ども(小1、6)とノルウェーに暮らしたことのある参加者によると、「年齢に応じた就寝時間のルールなどが決まっていたり、ほかの親に注意されるのは恥ということもあって、みんな家庭できちんとしつけをしていた。親の言うことにちゃんと耳を傾けるよう教え、家の修繕からボートや自動車の運転などの生活に必要なことも教える。でも、子育ては18歳までで、それ以降は口もお金も出さない。大学には、国の教育ローンを自分で借りて行き、親は子どもが家を出て独立していくのを見守る」とのこと。日本とは厳しさの意味が異なりそうです。18歳での自立が可能な社会背景も重要です。ノルウェー音楽療法士の資格をもつ参加者からは、ノルウェーでの子どもの力の伸ばし方について教えてもらいました。「大人は、その子のもつリソースをよく見ている。ないところを伸ばそうとしたり、トレーニングしたりするのではなく、その子のもつ力をいかに伸ばし、強化していくか。日本では目指すべき像が1つあり、みながそこに向かうよう教えるが、ノルウェー人には、人をどう伸ばすべきかを考える姿勢がある」。別の参加者によれば、教育educationの語源は「その人の能力を引き出す」とのことで、そこにはノルウェー人の考え方に通じるものがあります。

 

■〈困難と不可能の定義〉

はしがきのエピソードで、〈困難と不可能の定義の違い〉を問われたナンセンが次のように答えています。〈困難とは、ほとんど時間をかけずに何かをなしとげられることである。不可能とは、解決までに少しばかり時間がかかることである〉。この前向きなことばには圧倒されます。

さまざまな局面で不可能を可能にしたナンセンですが、ナンセンを特別な人物と感じる一方で、「この評伝に描かれているナンセンには、ノルウェー人的なものが象徴されている気がする」という声もありました。ノルウェー人と一緒になにかをしようとすると、「ノルウェー人の自己肯定感の強さ」を感じることが度々あります。「失敗したと思っていても、ノルウェーでは周りが肯定的にとらえてくれる。小さなころから『あなたはできる』と評価されて育っていれば、ここまではやったんだという自己肯定感と、自分もここまではできるという自信につながる。日本側が『それできる?』と不安になるが、意外とうまくいくことが実際に多い。ノルウェー人は自分の行動への自己評価が強く、それを語ることばも強い。多くは語らずとも自信に満ちた姿に、いつもすごいと思う」。本書に描かれるナンセンにもどこか共通するところを感じます。

 

■探検家であり研究者

フレデリク王立大学(現オスロ大学)で動物学を専攻していたナンセンは、20歳のとき、北極圏海洋生物の標本採集のためにアザラシ狩りの船、バイキング号に乗船。雪と氷の大地、未踏のグリーンランド内陸を目指したのはその6年後のことで、スキーによるグリーンランド横断を成功させたナンセンはイヌイットの村で一冬過ごしたのちに帰国しました。ベーリング海峡からの漂流物がグリーンランド南部に流れ着く謎を解き明かすべく、北極海の未知の海流や気象の観測・調査を第一目的に、1893年、31歳のナンセンはフラム号でクリスティアニア(現オスロ)を出港し、1896年に無事帰国します。北極圏を船ごと氷漬けになって漂流して渡るというナンセンの奇想天外の計画とその冒険譚は、ぜひ本書を手にとって読んでもらいたいところです。

こうした極北探検のあいだも、ナンセンは研究者として確実な実績を残しました。動物学のなかでもとくに難解な中枢神経系を研究テーマにひたすら顕微鏡で観察し、スケッチを版画に残します。のちに脳神経の解明に大きく寄与することになる、神経組織の染色法も習得し、膨大な図解を含む、先駆的内容の博士論文を執筆しました。この博士論文にはニューロン神経細胞)構造を解き明かす基礎研究が含まれ、ニューロン創始者のひとりとみなされるほどの業績でした。やがて極北探検を通してナンセンの関心は海洋学へと移ります。ナンセンの得た科学データは、その後長年、海洋学や地質学、気象学分野の研究で活用され、ナンセンの極北探検により、北極点は陸地や恒久的な氷盤の上にあるわけではないことが実証されました。

 

■難民救済と人道支援の道に

ところがノルウェー独立(1905)、第一次世界大戦(1914-18)という時代、ナンセンは外交の世界に引き込まれます。1919年のパリ講和会議にはノルウェー代表団の一員として参加、翌年、国際連盟ノルウェー代表に就任します。第一次世界大戦後、ロシア=ソ連の領域内、とくにシベリアには多くの捕虜が取り残されていました。国際連盟に請われてナンセンは捕虜帰還高等弁務官に就き、政治交渉や資金確保などさまざまな困難を型破りな方策で乗り越え、結果的にはこの捕虜帰還事業で40万人以上の命が救われました。また同時期、ロシア=ソ連は飢饉と感染症の流行に見舞われ、2〜3千万人が飢餓の危機に直面していました。ナンセンは、国際連盟を代表するロシア難民高等弁務官と、市民社会組織を代表するロシア飢饉救済事業高等弁務官とを兼任し、難民救済と人道支援に尽力します。

204ページに〈ナンセン・パスポート〉という法的な身分証明書を発行したことが出てきます。「リトアニアで大量のビザを発行して、日本経由で大勢の避難民の命を救った杉原千畝さんと同じものかと思ったら、各国が一定数の発行を認めた特別な正式のパスポートだった。国家衝突を避けながら、避難民に国家間の移動を認めさせた功績は大きい。また、避難民自身も少しだけお金を払う仕組みになっていて、当事者がまた別の人の命を救うことにつながっている」。

 別の参加者が本書を読んでいるときに目にしたニュースによれば、ノルウェー政府は国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)に対し、新たに約38億円を拠出すると発表したとのこと。「UNRWAの職員がイスラエルを攻撃したイスラム組織ハマスに関わっているという疑いから、英・米・独などが資金拠出を停止した一方で、ノルウェー政府はそこに難民がいるから、撤退はしないと言った。この本を読みながら、そこに苦しんでいる人がいれば、どんな政治的信条であっても支援するというナンセンの精神が生きているのを感じた」。

 

■難民の自立と福祉の考え方

第8章〈難民支援〉を読むと、ナンセンは難民の教育と自立を重視していたことがわかります。就労による自助を叶えられるような雇用促進を支援し、難民の自立を促すという考え方は、現代社会で支援を必要とする人への福祉のあり方にも重なります。「教育・労働・住宅を充実させて自立を支援するというのがいまの北欧の福祉だが、ナンセンも人間の自立が基本だと考えていたことが描かれていてすばらしかった」、「難民がどの季節に帰国すれば、種蒔きをしてその収穫物で生活していけるかといった具体的な考え方は、学者だったナンセンならでは」、「食糧と衣服があれば緊急的に命は救えるが、それだけでは根本的、永続的な解決にはならない。人として働き、住む場所を得て、自分の技術と経験を活かしながら生き続けられる場所が必要。ここは以前の読書会で読んだ『声なき叫び』に書かれていたことにもつながる」、「仕事と教育を提供することの大切さが100年前に議論されていたことに驚く。いまに重なることが多い」、「セックス・ワークに就く難民女性の姿を目にし、ナンセンがノルウェー女性委員会に伝えたことで、北欧諸国とイタリアが女性の状況改善のための募金を寄せた。このころすでに女性問題として見ていたのが分かる」など、ナンセンの先進的な福祉的視点についての感想も多く聞かれました。

 

■〈リベラルアーツ人〉の目指した世界

最終章で、著者はナンセンをリベラルアーツ人と呼んでいます。リベラルアーツとは古代ギリシャにおける〈自由市民の知識・技能の習得〉が起源で、その自由七科(セブン・リベラルアーツ:文法・論理・修辞・算術・幾何・天文・音楽)は〈人を自由へと開放するための学問的技法〉を意味しました。やがて後世において、大学での専門教育を受ける前の準備教育としての位置付けとなります。

ナンセンには目の前にした対象の仕組みを解き明かそうとするあくなき探究心があり、その結果、横断的、学際的に業績を残します。こうした学術面だけでなく、著者はナンセンが科学で新たな道を切り拓きながら、探検や外交、人道支援という現実世界に踏みこんでいったことを指して〈リベラルアーツ人〉と呼びます。どの活動においても、だれも試したことのない方法で独自の答えを見つけようとし、独創性と先駆性に富む業績を残しました。ナンセンがその学問的探求を通して身につけたのが、あきらめないで〈関心を保ちつづけ、技量を高めつづけ、問いにしがみつづけるしつこさ〉。また、なにかを創造するときは、当時の常識を一方的に破壊して、新たに構築するのではなく、〈先行して生まれたものと対話を紡ぎ、それを理解し、そのなかに諸原理を発見することで、解体するのみならず再構築していく〉という姿勢でした。

外部からの要請に応じて、人道支援の分野で活動することになったナンセンですが、さまざまな出会いを経て、〈自分自身を極限まで用い、他者の命のために尽くす〉ことに価値を見出します。〈リベラルアーツ人〉として〈新たな国際社会の構築による平和と、他者の救済〉に目標を設定し、〈他者の救いになることで、自分自身を救〉い、〈他者の自由のために生きることで、彼ははじめて自由に生きることができた〉と著者は語ります。「他者が幸せになれなければ、自分も幸せにはなれないという宮沢賢治の考え方と重なる気がした」という声もありました。また、沖縄出身の著者、新垣さんはあとがきで、〈ちむぐるさん〉(肝が苦しい:他者の魂の痛みを目撃したとき、それを自分の魂の痛みと感じる)ということばに触れています。ナンセンの唱えた〈連帯の情〉という平和哲学と重ね、両者は同情の域を越えて〈その背景にある社会の平和の維持を企図しているのではないか。他者の苦痛に無頓着であるかぎり、その社会の平和は維持せず、いつしかそれは、自分やつぎの世代の苦痛となるのだから〉と記しています。

 

■おわりに

〈人生で第一に大切なこと、それは自己の発見。そのためには、少なくともときどきは、孤独と沈思が必要である。解放は、あわただしく騒々しい文化生活の中心からは生まれない。孤独の場からうまれるものだ〉(280ページ)。これはナンセンが65歳のとき若い学生たちに伝えたことばのひとつで、著者は、学者であり、平和思想家であるナンセンらしいことばと記しています。「〈孤独と沈思〉、都会に住んでいると、現実でもネット上でも、ひとりで考えることがない。困難と不可能の定義など、あまりにも違う考えに、なんて粘り強く、道を切り拓いていく人だったのだろうと感じた」という感想が出ました。最後に、ほかの感想もいくつか紹介して、今回の読書会のまとめとします。

「若い人にも勧めたい本だった。ナチスに協力して裏切り者と呼ばれた人物(キスリング)との交流や右傾化した時期についても、そうなった社会背景がよくわかり、深く描かれていた」

「評伝は自分から手に取る種類の本ではないが、読んでいて勇気づけられる内容だった。自分が歳を重ねたからか、感じ入ることばが多かった」

「抑留、難民、飢餓。原因となる戦争のない世界にしたい」

「子どものころに読んだ偉人伝のナンセンとは違った。探検家、学者から難民支援へのつながりが丁寧に描かれていた。ナンセンの難民支援の姿勢には、障害のある人とどう関わるかの眼差しと同じものを感じる。平和について考えたいという学生もいるので、一緒に読むとよいかもしれない」                

(千)

 

 

第20回ノルウェー読書会のお知らせ『カードミステリー 失われた魔法の島』

20thノルウェー読書会のお知らせです。

 

5月25日(土)の第20回ノルウェー読書会は、ヨースタイン・ゴルデル作/山内清子訳『カードミステリー 失われた魔法の島』(徳間書店、1996)を取り上げます。

ベストセラー『ソフィーの世界』の作者ヨースタイン・ゴルデルの、物語作家としての本領を示す話題作です。

ご参加、お待ちしています。詳細は下記のチラシをご覧ください。

参加申込みはこちら https://forms.gle/Lyz88oq9kCYwhoN4A

 






 

第19回ノルウェー読書会のお知らせ『フリチョフ・ナンセン 極北探検家から「難民の父」へ』


19thノルウェー読書会のお知らせです。

 

2月10日(土)の第19回ノルウェー読書会は、新垣 修 著『フリチョフ・ナンセン 極北探検家から「難民の父」へ』(太郎次郎社エディタス、2022)を取り上げます。

探検家にしてノーベル平和賞受賞者のナンセンとは、いったい、どんな人物だったのでしょうか。

ご参加、お待ちしています。詳細は下記のチラシをご覧ください。

参加申込みはこちら https://forms.gle/YUtbcwv1KT4GkXks7

 

 

第18回『ノルゲ Norge』読書会ノート

佐伯一麦著『ノルゲ Norge』

講談社文芸文庫、2015年

 

■はじめに

今回の課題本『ノルゲ Norge』は、当時38歳だった著者の佐伯一麦氏が、再婚相手で染色工芸家である妻のノルウェー留学に同行し、北欧の地で過ごした一年間を、小説家の視点で綴った作品です。ノルウェー語はもとより、英語もままならない「オスロの外国人」と自身を位置づけた日常の描写には、短期滞在の観光とは異なる、現地に住む生活者としての気づきにあふれています。定住者だから見えてくるもの、発見できることが、丹念な文章でタペストリーを織り上げていくように、少しずつ読む者の目の前に広がります。2007年第60回野間文芸賞受賞作。

 

著者が過ごした1997年と同時期に複数年留学していた方、著者と同年代で家族と半年間在外研究で滞在された方、スウェーデンに留学経験のある方もいれば、ムンク研究のために今年初めてノルウェーを訪れた方、ノルウェーの民族楽器ハーディングフィーレを習いはじめ、今夏に山間の村で行われた音楽祭に行かれた方など、読書会参加者それぞれが小説に出てくる場面に自分の体験を重ねて記憶が蘇り、懐かしさや、共感を口にされ、和やかな雰囲気で読書会がスタートしました。

 

ノルウェーの外国人、「おれ」

『ノルゲ Norge』は全12章。8月のある日、妻の留学先の美術大学の学生課から斡旋された老朽化した8階建てのアパートメントの入り口で、その日から使うマットレスが配達されるのを待つ場面から始まります。著者は一人称の「おれ」で自分を語り、自己をさらけ出すように物語が語られます。住民が出入りする共同玄関で、彼らの言葉を聞き取ろうとしても、知っている言葉にしか聞こえないもどかしさ、物語冒頭から始まる著者が感じた言葉の壁に、参加者からも「言葉を理解できないまま異国の地に住む状況になったら、きっとこうなるのかという気持ちになった」という共感とともに、「言葉の通じなさはあったが、現地の人は温かく、解ろうと一生懸命聞いてくれる姿勢が嬉しかった」「言葉を理解しようとするだけに、鳥の啼き声や暖房器具のモータなど、音に対して敏感な描写がある」など、音に関する感想も随所であがりました。確かに著者の聴力は人並み以上に敏感で、帰国間近には、日本にはいない鳥の啼き声も聞き分けることができてしまうのです。

 

ノルウェーでの暮らし方

電車の乗り方、無賃乗車の取締り、お酒の買い方、酒場での禁止事項、魚の種類、伝統料理の感想、一日の食事の回数、ハンバーガーの食べ方、コインランドリーの料金、役所での外国人登録医療保険、失業率対策のための学制改正、国民高等学校制度、離婚制度、ノルウェー独立に至る歴史等々、ノルウェーに住むなかで著者が体験したこと、知ったことが、丁寧に書かれています。参加者からはその度に、「スーパーでは通常夜8時まで、休日の前は夕方5時になると酒類の売り場にカーテンがひかれて買えなくなった」「カフェに隣接するコインランドリーが割高だった」「バスを1停留所乗り越したらスマホに赤表示がでた」「スマホがないと交通機関の利用ができない」「無賃乗車のチェックが頻繁にはいり、リアルタイムでスマホの画面をみせた」「山間部ではドクターヘリで患者を運ぶらしい」「食事は一日中少しずつ、ずっと食べ続けている印象がある」「ノルウェー人は同じものが食事にでても飽きないらしい」「東京の人口を教えたら驚かれた」「街の規模が小さいためか知り合いが多い国だ」など、新しい情報も次々に提供されました。

 

■小説家としての視点

作品の中で、音に関する繊細な描写と同様に目を引いたのが、色の表現の卓越した豊かさです。小説家と染色工芸家の芸術家カップルということもあり、相互の刺激が感じられます。それは、タペストリーの作品描写や、ノルウェーの四季の自然描写、さらにはタペストリーをもとに詩編として表現した作品や、ムンク「叫び」の背景色など、様々な箇所で登場します。今年初めてノルウェーに行かれた方たちからも、「ノルウェーの空の色は青や紫など、誇張ではなく、本当に色鮮やかだった」という感想が聞かれました。「空気の澄んだノルウェー」だからこそ、日本では感じない色も沢山あるのでしょう。

多様性という点では、妻の級友に紹介されて通った外国人向けの無料のノルウェー語学校の場面でも、世界中のあらゆる国の人々が登場します。授業で行われるワークショップの様子や、成人学生たちの個性が語られ、単なる制度の紹介にとどまらない、内側からノルウェー社会を観察する作家の視点があります。

妻は、「ノルウェーの移民政策は、個々の文化を尊重しながら同化を求めるのが基本」であり、「ノルウェー語を習うことは権利と共に義務」であると級友からの情報を著者に伝えます。著者は、「この国が、社会人や主婦にも大学教育の門戸を開けていることは事実だが、それを享受するためには、どうやらタフでなければ自分のやりたいことは実現できないようだとおれは痛感」しますが、それは他の場面にも共通するノルウェー人の考え方です。妻の別の友人は、他者とのコミュニケーションがうまくとれない子供の一時保育をしていますが、その仕事に誇りを持っていて「これはボランティアではない」と言い切りますし、ボロボロのアパートメントを見たタクシーの運転手は、自分がオスロ市にこの建物が非常に危険な状態であることを通報してやると言います。

一方でノルウェー人はシャイなところがあって、共通の友人、知人、同郷の人から人間関係をつなげていく「知り合いの多い国」であると紹介し、「ノルウェー人は自己満足が強い」とか、「ノルウェー人はまだまだ隣人の成功をうらやみ嫉妬するところがある」等、マイナス面を語ることも忘れません。

 

■夫婦の空気感

 夫婦二人で過ごす異国での1年間の滞在記ですが、妻との会話は彼女の友人の話や、ノルウェーで生活するうえでの情報など、差しさわりのない会話にとどまります。私小説であることからすれば違和感すら感じますが、読み込んでいくと、最初の連れ合いとの関係を赤裸々に小説化したことで、離婚に至った内容も書かれています。そこまで書くとは、まさに私小説だ!との感想もあがりました。新しい伴侶となった今の妻とは、感情的な会話や生活の様子などの描写はなく、芸術家同士、相手を尊重し踏み込まない配慮も感じられるほど透明な空気が漂う関係です。それは決して冷たい空気ではないことも、巻末の詳細な著者年譜には度々妻の動向も書かれていることに伺われます。

 染色工芸家の妻が「『織り』は経と緯の二本の糸で構成させるのに対して、『編み』は一本の糸だけで平面を生み出す。一度進んだら後戻りできない『織り』と、もう一度ほどいて再構成することもできる『編み』。『織りの人生』というものがあるのならば、『編みの人生』というものもある」と言った場面に感じる、妻とのどこか俯瞰的な関係性がこの小説の特徴といえるかもしれません。

 

■スズキ・メソッド、聞きなし、ルビ

滞在当時のノルウェーではバイオリンの教育方法のひとつ、スズキ・メソッドが注目されていて、著者が妻の級友から、スズキ・メソッドを知っているかと聞かれる場面があります。読書会に音楽の専門家が参加されていることから、日本人とノルウェー人の聴覚の話題になりました。楽譜を見ないで音で覚えて弾くこの方法は、ノルウェーの民族楽器ハーディングフィーレの教授方法とも共通点があるそうです。楽譜はなく、師匠の口伝で覚えていくのです。耳から入った音を、音として表現することに秀でたノルウェーの人たちと、鳥の啼き声を音としてではなく、言葉に置き換える(聞きなし)私たち日本人との違いも面白い発見でした。

 さらに、文中に出てくるルビにも話題が及びます。著者は日本語に英語のルビ、ノルウェー語に日本語のルビ、日本語にノルウェー語のルビなど、ルビの独特の使い方をされており、このルビが混在した状況を、「初期のころ、日本語、英語、ノルウェー語が頭の中で言語的にごちゃごちゃになっている感じが懐かしい」といわれる参加者もありました。その混とんとした状態が、著者の中で整理され、「身体の内側からノルウェーを感じていく」過程が読み進むうちに伝わってきます。日本語にノルウェー語のルビが振られた題名『ノルゲ Norge』も、実は、著者の内側から発せられた言葉、第12章「ノルゲ!」の伏線になっているのでしょうか。

 

■もどかしさから再生へ 『ノルゲ Norge』の魅力

 最後になりましたが、参加者の感想から、この本の魅力を感じてください。

「北欧を知りたい人はこの本を読むと情報がたくさんあって主人公とともにオスロの冬を体験した気分になれる」

「同じような経験をしていたにも関わらず、一冊の本としてこれだけまとまる人もいれば、ただ過ごして、ああ楽しかったなという私」

「モデム回線のことや、巻末のご自身の経歴など、記憶が詳細ですごい、こだわりの方、記録魔なんだなと」

「少しずつノルウェーに馴染んでいく著者の目を通して、読者も少しずつノルウェーへの理解を深めていく時間の流れを感じる」

「ヴェーソスの作品の試訳を本の中に実際に載せたり、本当に作家としての日常生活を記録されているような感じがした。著者がオスロで、日々自分を磨いておられたような、その一部を見るような気がした」

「この人は、知らないことを書いていない。経験していないことを書いていない。知らないことを背伸びして書いたりしていない。知ってること、経験したことだけが書かれているのがすごく面白い。それが私小説の醍醐味なのかなって」

 

 言葉が通じないまま異国での生活が始まり、「留学生の妻にのこのこついてきた夫」という不安定な立場から、著者は自分の存在意義を自問自答し、同じく生きている意味を問いながら最後は入水自殺した作家・太宰治と対比する場面があります。

著者の感じた「けっして物事そのものにはたどりつけないもどかしさ」についても、「もどかしさは今もずっとあり続けていて、知りえないからこそ面白いということがあるのだと思う。それが異文化であることは当然で、日本人同士だってわかり得ない。本来は違うはずなのに分かり合えたりするところもあったりして、それが面白い。昔のことでありながら今のことのような気がする」という参加者の感想もありました。

 最後、小説冒頭でも登場した蜂が、開け放した窓から入り込んで著者の頬を掠め、再び窓の外へ飛んでいきます。この冬おススメの一冊です。ノルゲ!          (弘)