25th ノルウェー読書会のお知らせ 『人形の家』

25th ノルウェー読書会のお知らせです。

10月11日(土)の第25回読書会は、ヘンリック・イプセン作/毛利三彌訳(2020、論創社)『人形の家』を取り上げます。日本で知られるノルウェー文学のなかで、おそらくもっとも有名な作品ではないでしょうか。まだ読んだことのない方も、すでに何度も読まれた方も、読書会で一緒に読んでみませんか。詳細は下のチラシをご覧ください。

お申し込みはこちらから→https://forms.gle/KSfpUpXyay6MJig3A 

 



 

第24回『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』読書会ノート 

 

ヨースタイン・ゴルデル著/柴田さとみ訳  

『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 2024年 NHK出版 1,980円(税込)       

 

               ※以下、引用文には「」、会話部分は<>を使用した

■哲学者?作家?孫を愛するノルウェーのおじいちゃん?

世界的ベストセラー『ソフィーの世界』が日本で出版されてから30年。本書『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』は、ヨースタイン・ゴルデル初のエッセイです。哲学者であり、作家である著者が、6人の孫たちに伝えたい大切なことを、「公開書簡」のかたちで本にしています。語り口は優しく穏やかですが、内容は、生と死、自然、存在、考えること、時間、空間、地球、宇宙、北欧神話、人類への哲学的な問いなど、幅広いテーマが展開されます。

 

参加者の感想は、<この本がどこに向かっているのかわからない><何を言おうとしているのかつかめない><哲学的でもあり、読み物的でもあり>という、とらえどころのない本書のイメージからスタートしました。著者ゴルデルは、哲学者なのか、作家なのか、はたまたノルウェーに住む孫を愛する一人のおじいちゃんなのか。書き出しの第一印象は、<なんと説教くさいおじいちゃん!>という愛すべき感想でした。

 前回に続き2回目の参加の方、ベルゲンに一年留学された初参加の学生の方、北欧音楽の演奏家の方など、今回も多彩な顔ぶれで読書会がスタートしました。

 

■自分はいずれ死ぬのだと理解した

ある日曜日の昼間、10~11歳の少年だった著者は、小鳥がさえずりメルヘンのように美しい、いつもの見慣れたノルウェーの森の中で、「自分はいずれ死ぬのだと理解した。それはいまこの世界にいることの代償なのだと」感じます。

全18章、それぞれの章はエッセイ的でもあり、哲学的でもあり、時としてその両方の視点で書かれています。生と死、個としての自分と自然と一体化した自分、心を読む男の登場、入れ子になった物語など、各章とも短いながらも奥深いテーマがテンポよく展開します。次々と降り注ぐ話題に、読み手は嫌でもついていかなくてはなりません。

 

■伸び縮みする時間と空間

著者の祖父が時計職人だったという話の延長で、万国共通時計の作成に時計職人が貢献した話題に移ります。航海時代、航路上の各国で共通する正確な時計が必要であったことと同時に、鉄道でも同じことが求められ、「鉄道時計」が発明されたことが紹介されます。まさに「必要は発明の母」です。さらにジェームズ・クック船長が航海地図を作成したことから、空間や測量の話にまで広がっていきます。

 

不変の長さが求められる時間がある一方で、場合によっては短くも長くも感じる時間があります。著者が子どものころ過ごした山荘での暮らしが、度々登場します。電気もガスも電話も車もない暮らし。誰かと会うには事前に約束をして、牛乳配達のトラックの荷台に乗せてもらって山道を登る暮らし。ノルウェーでは同じような経験をしたという参加者もいました。もちろんパソコンもスマホもありません。そんな生活が著者にとっては「鳥のように自由だった」という言葉に、会場から共感の声が相次いであがりました。

 

■哲学者としてのエッセー  いつの間にか哲学的な会話がはじまる

注意深く読みすすめると、各章で取り上げられるテーマごとに、必ず相反する視点が提起されていることに気がつきます。個別であるけれど、全体でもある。自分はこの世界では居場所のない「異星人」だが、あるべき場所があるとも感じる。不変を求められるが、変化もある。非科学的なものがあるが、科学的なものも存在する。疑り深い整形外科医もいれば、信じやすい宇宙飛行士もいる。女性はものごとを理解しようとするが、男性は理解されたがる。とはいえ理解されたがる女性もいるし、相手を理解しようとする男性もいる。読者は著者から相反する二つの視点を突き付けられ、いつのまにか哲学的思考の沼にはまっていきます。初対面の参加者同士ですが、違う視点から自由に意見を出し合い、3人目の参加者が<〇〇さんのいい質問に、△△さんがいい答えを出した。ゴルデルは、その時その時の心の声に従うべきなんだけど、そのプロセスが大事だと言っている。よい会話だった>と論点を整理する場面もありました。一冊の本から様々な見方を楽しむ、読書会ならではの豊かな時間です。

 

著者が『ソフィーの世界』で見落とした重要な哲学的問いがあり、本書で改めてその問いなおしをしたいと、一章を費やした箇所があります。北欧音楽の演奏家である参加者からは、<本の内容より、同じ創作者としての立場から著者の感情に寄り添った>という身近な感想もありました。著者が見落とした問い、「人類の文明と地球の基盤をこの先どうすれば守っていくことができるのか?」は、本書の後半全体の根底に一貫して流れる著者の心からの問いとなっています。文明の発達が地球環境を脅かしている。しかし、地球が生命体の住めない惑星になれば、人類も存在しないという自己矛盾があります。北海油田による政府系ファンドは、自然を愛するノルウェー人にとってのジレンマでもあり、参加者からもノルウェー人はどう思っているのだろうかという発言もありました。私たちは「人類」という「類」の大きなくくりで、私たち以外の生命体や自然に対しての責任があり、今、我々は個人・国家を超えた大きな枠組みで「世界義務宣言」を提案し、「戦闘モード」になって行動すべきだ!と著者は叫びます。

 

ノルウェーから感じること  〇〇で世界を変える

「『ソフィーの世界』から30年 世界を知る、哲学で」は本書の帯に書かれたコピーです。30年前、著者は『ソフィーの世界』で哲学の面白さをわかりやすく提示し、全世界の若者に哲学入門の扉を開けました。30年後の『未来のソフィーたちへ』では、「今ここにいる私たち(ノルウェー語原書タイトル)」にむけて、「世界を知る」だけに留まらない、さらに大きな次のアクションを読者に促しているように感じます。

 

音楽療法士である参加者からは、ノルウェー人の師から<音楽療法士であることで一番重要なのは、活動家であることだ>と言われたそうです。ノルウェー人のいう「活動家」は「現状をどう変えていけるのか、常にそこから逃げないでいる人」であり、ノルウェー人はこうやって社会を変えてきたのだなと感じたそうです。哲学者ゴルデルは、カール・マルクスの言葉「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。重要なのは世界を変えることだ」を実践する人だという発言もありました。そこにゴルデルの言葉をつなげれば、世界を変えるために必要な「希望とは、戦う勇敢さだ」とも言えます。<音楽療法で世界を変える>、<哲学で世界を変える>、<あるべき場所から世界を変える>とも聞こえます。また、ノルウェー人が良く使う言葉<dugnad>は、<共同で行う>という意味だそうです。「ノルウェーは典型的なキリスト教プロテスタントの国」です。「労働運動の思想に色濃く影響を受けて」培われてきた国民性が、今もノルウェー人の根底にあるといえるのではないでしょうか。

 

ベルゲンのファーナ国民高等学校と交流のある読書会メンバーから、ゴルデルが哲学と思想史の教員として、ファーナに勤務していたとの情報提供もありました。彼は執筆を理由に一年休職しますが、その後出版した『ソフィーの世界』がベストセラーになったため高校には戻らず、作家活動に専念するようになったそうです。誰でもが身近に出会える高校の先生が世界的ベストセラー作家であり、哲学者なのです。ノルウェー人のスケールの大きさと、風通しがよく柔軟な職場環境や、文化を後押しする社会の仕組みを感じます。ノルウェーでは、哲学者や作家はけっして遠い存在ではないのです。

 

■作家としてのエッセイ  言葉、構成、展開

哲学者、作家のどちらも「言葉」を大切に扱う仕事です。同じく言葉を職業とする翻訳者のメンバーからは、第3章まで読み進んだ時点で、すでに<単純な描写ですませるのではない、なんて表現が豊かで、言葉を紡ぐのがうまいのだろうかと感心した。忘れてしまっていることを言葉にしているという感想があったが、そういう細かな感覚が文字にされている>との発言がありました。例えば「心を読む男」の章だけでも、「心」「魂」「考える」「思考」「意識」などの言葉を慎重に使い分け、さらには北欧音楽でも使われる古い北欧語・古ノルド語を一部で使うなど、北欧好きだけでなく、神話好き、ゲーム好きの感性をもくすぐります。

 

カードミステリー』『アドヴェント・カレンダー』など他のゴルデル作品には、物語の中に別の物語を入れた、入れ子式の物語のスタイルがあります。本書ではその創作のヒントとなる、祖父宅にあった絵のことも紹介されています。また、各章の終わりには次の章の伏線となる言葉や方向が隠されていて、<前の章と次の章がつながっていく構造に、作家のエッセイだと感じる>という発言や、<手紙ではなく、エッセイを手紙スタイルに訂正しているのが作家の作為だ>との感想もありました。

 

ノルウェーに行かないとわからないこと

本書には日本では馴染みのない植物や鉱石の名称も出てきます。著者が寝ころんで空を見上げる場所に何度か登場する「ヒースの茂み」の「ヒース」は、ノルウェーでは「エリカ」と呼ばれる、ピンクの小さな花を沢山つけるツツジ科の常緑低木であることがわかりました。

著者が山道を歩く場面で出てくる「氷堆石(モレーン)」はノルウェーの山ではよく出会う鉱石であり、それどころかノルウェーで山と言えば岩盤、土があるのは森だという参加者の指摘は、ノルウェーに行った人でなければ実感できない発見でした。

第7章「地球という惑星」でボイジャー1号が撮影した太陽系の「家族写真」の公開日が1990年2月14日であったことから、日本ではバレンタインデーで有名な2月14日は、ノルウェーでは「すべてハ―トの日」とされていて、<ハートのカードが書店で売られていて、本を送ったりする>、<2月14日はフィンランドでは「ともだちの日」で、特にハートは使わず友達に花をあげる>など会話がはずみ、少なくとも、<女の子が頑張ってチョコレートを作って男の子に愛を告白する日ではない>ことは確認できました。

また、フィンランド人の三人の木こりが酒盛りをする話(乾杯!と言っても、フィンランド人はなかなか返事をしない。しゃべるよりも飲め!)は、ノルウェー人からみるフィンランド人像のジョークだとの説明もあり、北欧各国の微妙な空気感が理解できて面白い時間でもありました。

 

■読書には答え合わせはいりません

最後にもう一度、参加者からの発言をご紹介します。

 

<『ソフィーの世界』は学生の頃に読んだ。30年近くたったので、この本も読みたいと思った><最初から「存在」と「死」が提示され、とても哲学者的な印象を受けた>

<6人の孫たちを、若き「世界市民」と呼んでいる。この本のキーワードだと思った>

ノルウェー人は大学で学んだことをそのまま自分の仕事に生かすのが一般的だ。若い時から自分は何が好きか、将来何をするか真剣に考えている人が多いので、挑戦ができるのだと思う>

<超常現象というものがあるのではなくて、私たちがどういう世界観を持つかということだと明確に言っている>

<自由と責任をセットで子供たちに伝えようとしている。ノルウェーの教育、社会の考え方が、自由と義務の両方を提起している>

<困っている人がいたら助けるという単純なこともあるが、「困っている人」は次の世代というところまではなかなか実感として想像がつかない。本能的に三世代以上のことは気にかけない、人間の本能には織り込まれていないというところ。そこもドキッとした。「隣人」というのをどの軸でみるのか、ハッとさせられた>

仏教用語「自他不二」が出てくるのが印象的。東洋的なものを感じる>

<一冊の本についてみんなで喋れるのは楽しい。子供ころからこんなのできたらいいのにというおしゃべりができた。自分では気づかないことを言ってもらえたり、私はこう思うという意見が聞けて嬉しい。参加できてよかった>

<自分が生きている時代だけでなく、前後左右、もっと思考を幅広く、時代も超えて考えていきたいと思った>

 

本書は著者が哲学者ということもあり、問いかけや、思考を促す場面が多い内容でもありました。不思議なことに、年齢を重ねると疑問もどんどん増えてくるのです。読書に答え合わせはありません。ゴルデルは『ソフィーの世界』で哲学の面白さの門戸を開き、本書では、次の世代、さらに若いその次の世代に、哲学で世界を変える可能性を再試問しています。

今年の夏至は6月21日、読書会は6月28日でした。ちょうど夏至の頃にノルウェーで過ごした事があるという参加者が、夏至を過ぎると一日一日昼の長さが短くなり、ノルウェーは本当に夏の短い国だなと感じたそうです。この夏を日本で過ごすみなさま、猛暑日が続きますが、まずはやさしい哲学の本を一冊手に取り、読書で暑さを忘れませんか?(弘)

第22回ヘンリック・イプセン『野がも』読書会ノート

■はじめに

ヘンリック・イプセン(1828-1906)はノルウェーを代表する劇作家・詩人・舞台監督です。「近代演劇の父」と称され、今でも世界中の舞台で演じ続けられています。今回取り上げた『野がも』は、1884年イプセンが56歳の時の作品です。

すでに『人形の家』(1879年)、『ゆうれい』(1881年)、『人民の敵』(1882年)を世に送り出し、19世紀ヨーロッパで主流とされていたヴィクトリア朝的な厳格で節制を美徳とする古い価値観に一石を投じた革命的ともいえる彼の作風は、当時、誰もが注視する存在であり、新作に対する世間の期待もいやおう無しに大きかったと思われます。

 

グレーゲルスの父ヴェルレは、豊富な材木資源を元に一代で富を築いた豪商です。山の工場から久しぶりに町の屋敷に戻ったグレーゲルスは、学生時代からの親友ヤルマールと再会します。ヤルマールの妻ギーナは、グレーゲルスの父ヴェルレの召使でしたが、グレーゲルスの母は、夫とギーナの関係に疑いを持ち、それが原因でギーナは解雇されたという経緯がありました。

また、グレーゲルスと親友ヤルマールの父親同士は、かつて工場の共同経営者でしたが、国有林伐採をめぐるある事件を機に、ヤルマールの父が罪を一身にかぶって服役したという過去があります。ヤルマールの家は世間の非難を浴び、家は没落し、ひっそりと暮らすことを余儀なくされます。グレーゲルスの父ヴェルレは、ある種の負い目からかヤルマールの家に密かに資金的援助を続けていました。

 

登場人物のそれぞれが抱く小さな疑惑や秘密が、やがて不幸な妄想へと膨らみ、物語はすすみます。最後の場面は、父親への愛情を一途に求め、悩み続けていたヤルマールの幼く多感な娘ヘドウィグの死、という悲劇的な結末で舞台は幕を閉じます。

 

■参加者からの感想

ノルウェーの民族楽器ハーディングフィーレを演奏される方、翻訳家、研究者、大使館関係者、いつかノルウェーに行ってみたいと思われている方など、今回も沢山の北欧好き、ノルウェー好きの方が東京、神奈川、滋賀、京都、アメリカから参加されました。今回の課題本はノルウェー研究の第一人者である毛利三彌氏の新訳ということもあって、作品内容だけでなく、翻訳の立場からも様々な感想や意見が交わされました。

 

参加者から、イプセンの母国ノルウェーでは、近年新たに詳細な注釈が掲載されたイプセン作品の研究全集が刊行されたという情報もあり、毛利氏による「近代古典劇翻訳〈注釈付〉シリーズ」が、このタイミングで日本でも新たに刊行されていることも納得できました。

2024年の最新刊『野がも』の帯には「これは悲喜劇なのだ」というイプセンの言葉が紹介されています。私たち日本人の読者にとっては、少女の死という悲劇的な結末が強く印象に残ります。参加者からは、「この作品は悲劇的な印象しかないが、喜劇的な部分は一体どの部分なのか」という戸惑いの声も聞かれ、悲劇か、喜劇かは、その後の意見交換でも話題の大部分を占めました。

 

■「これは悲喜劇なのだ」イプセン

まず発言があったのは、「太った顔色の悪い紳士」「薄毛の紳士」「近目の紳士」など滑稽に紹介されたパーティの参加者の描写と、彼らの会話部分でした。第一幕で出てくる彼らはいかにもこの作品の喜劇的要素といえます。また、日本人の感じる喜劇的要素と、ノルウェーの方たちが感じるそれらは違うのだろうかという問いもありました。

次に登場人物個人のキャラクターにも焦点があてられました。過去の演劇学関係の論文も紹介され、その中では無能と片付けられた人物が、実は一番現実的で冷静な判断をするキャラクターではないかという意見も出され、全く違った見方もあり得る読み方の違いにも気づかされました。

 

話題は戯曲全体の構成にも及び、学生時代の親友同士の二人、つまり、真理を明らかにすることこそが理想の家族、人間関係なのだと夢物語を語るグレーゲルスと、家族の微妙な心理には全く鈍感でお人よしのヤルマール、この浮世ばなれしたお坊ちゃん二人の存在こそが喜劇的要素なのだという話にもなりました。不幸な喜劇がやがて大きな悲劇を招くことになる。そんな構図も見えてきます。

 

他にも、「真実を暴き理想を貫くことは崇高な行いなのか」、「現実社会を生きていくためにはつかねばならないウソもある」、「野がもは何を象徴しているのか」「少女の父親は本当は誰だったのか」など、作品のあちこちに散らばった答えのでない疑問を考えさせられながら、二時間の読書会はお開きとなりました。

 

■戯曲を読む楽しみ、面白さ

戯曲は小説と違い、セリフだけで物語がすすんでいきます。ですので、文字数やページ数としてカウントすると、戯曲は小説に比べてそれらが極端に少ないと言えます。例えば長編小説の場合であれば上下巻や第一巻、第二巻、第三巻などの複数巻にわたりますが、上演時間が三時間を超える長い戯曲であっても、とても小説のページ数には及びません。小説を読むスピードで、さらっと読んでしまえば何も伝わってこない。では、どう読んだらいいのでしょう。

 

まず、ト書きによって大体の舞台装置がわかります。貧しい家なのか、裕福なお屋敷なのか。街なのか、田舎なのか。また、登場人物の最初のセリフの発声ひとつでも、その人物の性格やイメージも変わり、そのイメージが作品全体にも影響を与えることにもなります。読み手ひとり一人でも印象が違うかもしれません。同じ舞台を友人同士で観に行った時、観劇後の感想や感じる場面が違う、そんな経験があると思います。そのことが面白いのです。

 

今回の翻訳でも、毛利氏が1997年に東海大学出版会から刊行した『イプセン戯曲全集 現代劇全作品』と比較すると、女性執事が屋敷の〈召使に近づき〉というト書きのあとに、「ペテルセン、コーヒーは音楽室に」のセリフが続く場面があります。新訳ではト書きが〈すれ違いざまに下僕に〉に書き換えられていました。ただそれだけですが、それが舞台で演じられたら観客はどんな印象を受けるでしょう。

最初のト書きではパーティの参加者とともに足早に隣の部屋に移動しながらも、召使に近づいて小声で耳打ちすれば、来客が心地よく過ごせるよう細やかな気遣いができる女性という印象を与えます。同じ場面が新訳で、すれ違いざまに命じると変更されたことにより、上から目線の横柄な態度の女性、またはテキパキと仕事をこなして屋敷を取り仕切る実力者的キャラクターにも見えてきます。セリフ一言、ト書き一行でも登場人物の印象が違って見えてくる面白さではないでしょうか。

 

お気に入りの人物になりきって、その人物の動きを想像しながら、その人物のセリフだけをこっそり声に出してみるのも、戯曲の楽しみ方のひとつかもしれません。目線はどこにむける?声は低い?高い?いらだったふうに早口にいうのか、それともゆったりと優雅で上品な言い回しで話すのか?その人物は誰との会話が一番多いのか。どんな場面で登場してくるのか等々。新しい発見や作品の印象も変わるかもしれません。

今回は戯曲をとりあげましたが、小説とは違う、戯曲だからこその作品の楽しみ方が新たに見えてきそうです。(弘)

 

 

第22回は開催日(12/21)がクリスマス直前ということもあり、読書会終了後に会場のconiwaさんのご厚意でプチクリスマス会が催されました。参加者のお一人からハーディングフィーレの演奏が披露され、ノルウェーの薪ストーブを囲みながら、北欧の冬の暮らしの雰囲気に浸る、素敵な時間を過ごすことができました。

24th ノルウェー読書会のお知らせ『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』

24th ノルウェー読書会のお知らせです。

6月28日の第24回読書会は、ヨースタイン・ゴルデル作/柴田さとみ訳(2024、NHK出版)を取り上げます。

1991年執筆の世界的なベストセラー『ソフィーの世界』から30年を経た作家ゴルデルのエッセイです。訳者あとがきによれば、「わたし」という一人称視点がゴルデル本人を指すのは本作がはじめてで、最初はとてもプライベートな感じのする執筆作業だったとのこと。ゴルデル小説がお好きなかたも、ゴルデルを初めて読むかたも、作家の哲学的思考を一緒に辿ってみませんか?

詳細は下のチラシをご覧ください。

お申し込みはこちらから→ https://x.gd/dIV1o 

お問合せはこちらまで→ norwaybooks@gmail.com 

 

第23回 ヨン・フォッセ『朝と夕』 読書会ノート

ヨン・フォッセ著   伊達 朱実訳 『朝と夕』 2024年 国書刊行会 2,200円+税

 今回はヨン・フォッセ『朝と夕』の訳者の伊達朱実さんと、進行役にノルウェー語/日本語の翻訳者アンネ・ランデ-ペータスさんをお迎えしての特別回となりました。伊達さんは東京のノルウェー大使館に32年間お勤めになり、ノルウェーやその文化などにもずっと接してこられました。初の翻訳がノーベル文学賞受賞作家の作品で、その大きな挑戦へのきっかけや翻訳作業、作品について深いところまで聞かせていただきました。参加者のお気に入りの箇所や感想も挟みながら、当日の内容をお伝えします。*あらすじに触れています。『朝と夕』未読の方はご注意ください

 ■『朝と夕』について

伊達)『朝と夕』の主人公は西ノルウェーの小さな漁村に住む漁師ヨハネス。その誕生と最期の日の2日間を描いている。誕生の第1部はごく短く、第2部では夢現のなか、時間軸も消え去ったような世界をヨハネスが生と死の狭間を行ったり来たりしながら、少しずつ自分がもう死んでいることを悟っていく。この2日間だけからひとりの人生がすべて見えてくるような物語。題名は、朝が誕生、夕が死を表し、それが繰り返されていく、ということを表しているのだろう。

・『朝と夕』という題名である人物の1日の話かと思っていたら、「誕生と死」とあり、人生の話とわかった。危篤状態で朦朧としていると思っていたら、実はそれでもなかったとは。

 伊達さんの一番好きなところは物語の最後、「さあ、もう振り向くなよヨハネス……もちろんいるよ」(pp. 138-139)、親友ペーテルとともに旅立つ場面です。

伊達)翻訳のきっかけは、ノーベル文学賞発表の約1年前、アンネさんがノルウェー文学好き数人に声をかけ、「ノーベル賞受賞に備え、いまからフォッセについて勉強しよう」と誘ってくださったこと。毎年候補に上がっていることは知っていたが、正直なところ、本当にノーベル文学賞なんて獲れるのかなと思っていた。勧めていただいたこの本を読み、先の所で、心をぎゅっと掴まれた。当時、姉を亡くして間もないころで、本当に暗闇のなかにいる気分だった。「(そこには)好きなものが全部あって、……(マグダ姉さんも)もちろんいるよ」とあり、そこまで訳したいと思った。とにかく自分の心の安定のために、1日1行でもいいから写経のように訳そうと。本当に本になるとは思ってもいなかったが、なんとフォッセがノーベル文学賞を獲り、とんとん拍子で出版が決まった。ちょっと不思議なご縁だった。

■ヨン・フォッセについて

 ヨン・フォッセは2023年ノーベル文学賞を受賞したノルウェー人作家で、2025年、65歳のいま、戯曲40作、小説30作、詩集10冊、エッセイ集5冊、児童書を9作、そして翻訳も手掛ける筆の速い多産の作家です。

アンネ)フォッセは1959年、西海岸スタヴァンゲル近くのハウゲスンで生まれ、ハーダンゲルフィヨルドのストランデバルムで育ち、ベルゲン大学で哲学や文学を学んだ。ベルゲンの観光地ブリュッゲンにはハンザ同盟時代からの建物が立ち並び、小説『三部作』にはこの辺りが出てくる。首都オスロから西に水平移動するとノルウェー第2の都市ベルゲン、その少し南にスタヴァンゲルがある。むかしからこの辺りは漁業や海運業に従事する人が多い。岩場の多い海岸線が西ノルウェーの特徴的な風景。戯曲『名前』にも西ノルウェーの山やゴツゴツした岩場が描かれている。

ノーベル文学賞受賞時の記事で「北海の風景がなければ自分の作品は生まれなかった」と語っていた。私は広島出身だが、瀬戸内海の穏やかな海では絶対に書かれない作品だ。いま長野に暮らし、気候や見える風景で生まれてくるものや性格も変わってくると感じている。

■フォッセ作品について

アンネ)フォッセはベルゲンで初めて劇を観て、実は「演劇はつまらない」と思った。しかし結婚して赤ん坊が生まれ、経済的に苦しかったころ、戯曲は支払いが早いと知り、戯曲ワークショップに参加。サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら』は、ふたりの男がだれかをずっと待っているが、結局だれも来ない物語。その反対を行くというアイデアから生まれたのが戯曲『だれか、来る』。みんなから離れ、ずっと自分たちだけ暮らしたいというふたりが「だれか来るかもしれないが、来て欲しくない、来たらどうしよう」と繰り返すシンプルな会話劇。とてもよいものを手にしているのに、だれかがやって来てそれを壊してしまうのでは?と恐れ、次第にふたりの関係が壊れていく。この戯曲は大ヒットし、ドイツやフランスでも大成功を修めた。ところが人前で話すのが苦手なフォッセは酒なしでは舞台挨拶に立てない。戯曲が当たるたびに酒量は増え、2014年、断酒のために戯曲はもう書かないと決意。そうして書いた小説『三部作』がノルウェーでもっとも栄誉ある文学賞を獲った。2023年のノーベル文学賞受賞はおそらく『七部作』を書いたから。才能豊かだがアルコール中毒の芸術家アスレとそのドッペルゲンガーのようなもうひとりのアスレの物語。7章からなる3巻本で、祈りと文学のあいだのようと評される。フォッセ作品で邦訳が出ているのは小説『朝と夕』と『三部作』、戯曲の『だれか、来る』、『名前』、『スザンナ』、『ぼくは風』。日本での初上演は2004年『だれか、来る』で、ほかに『死のバリエーション』(2007)、『スザンナ』(2015)、『ぼくは風』(2024)が上演されている。

■フォッセレクチャーとフォッセプライズ

アンネ)フォッセがノーベル文学賞を受けたあと、ノルウェーはフォッセの名を冠したフォッセレクチャー(フォッセ講演)の設立を決定。毎年世界中から講師を1名選出し、4月にオスロの王宮で講演会を開催する。「私がノーベル文学賞を受賞できたのは、外国語の翻訳者のおかげ。翻訳者への賞と報奨金も同時に渡したい」というフォッセの希望により、フォッセプライズ(フォッセ賞)も設立された。初のフォッセレクチャーは2025年4月24日、フランスの哲学者で神学者のジャン-ルック・マリオンが行なう。120作以上のノルウェー文学作品を訳してきたドイツのヒンリッヒ・シュミッツ-ヘンケルが同日、フォッセプライズを授与される。

■文体と翻訳プロセス

 ノルウェー語にはふたつの書きことばがあります。ひとつはデンマーク語を元としたブークモールBM。そして1800年代のノルウェー独立の機運が高まるなか、ノルウェー各地の方言を標準化して作られたニーノシュクNN。地方で使われることが多く、NNの使用者は現在10-15%ほどです。

アンネ)フォッセの独特な点はNNで書いていること。私も含めNN使用者は、「これが心のことば、私のことば」と感情的になりやすい。フォッセもノーベル文学賞の受賞スピーチのなかでわざわざNNに感謝を述べている。

伊達)ノルウェー語でもNNは詩や歌の歌詞、小説などに向く、とても詩的なことばと言われている。フォッセは多数翻訳もしており、その作業について語ったインタビューは、私の翻訳にとても役立った。「違うことばなのだから、原文と違う色調になるのは当然のこと。例えばBMをNNに訳すだけでも、同じノルウェー語でありながら、すでに違う色調が出ている。大切なのは正しいかどうかに神経を尖らせるよりも、原文の底に流れる音楽を聞き取ること。それを自分なりに編曲するとよい」。そこで私はNNのリズムを日本語に移し替えようとか、鄙びたことばを使っているので方言を使おうとか、そういうことはあまり考えなかった。自分の頭のなかでヨハネスやペーテルのキャラクター設定をし、台詞の雰囲気が小説のなかで一貫するよう心がけた。

・文が切れていないのに驚き、「これはなにかの間違い?」ともう一度読み、あとがきでこういう文体なんだと理解した。変わった文体にも関わらず、ページを繰る手が止まらなかった。

・句点もかぎ括弧もないのに、だれが話しているのがよくわかる。読んでもらうと「〜と言った」が耳に付くが、目で読むと気にならず、語りが聞こえてくる。不思議だった。

伊達)「彼は言った、〜と言った」というのは、実はもっと出てくる。これでもかなり割愛した。フォッセの文章にはこれが散りばめられている。

アンネ)フォッセの文体はずっと句点(ピリオド)なし。これはノルウェー語でもそうで、ノルウェーの読者も「えっ」となる。そこを乗り越え、受け入れると、フォッセのリズムに入っていくことができる。フォッセ作品に流れるリズムを訳すために、伊達さんがした工夫とは?

伊達)フォッセを読んでいると、独り言のような、ひとり芝居のような作品に感じられた。そこで原書も日本語も朗読しながら訳した。また翻訳には正解がなく、ことばの選択で醸し出す雰囲気はずいぶん違う。小さな選択の連なりが最終的に作品になるというのが面白くもあり、難しかった。フォッセはインタビューで「自分は少し古めかしいことばを使うのが好き」と答えている。私もあまりカタカナは使いたくなかったので、たとえばスーツではなく背広、キャップではなく庇帽などとした。ことばには賞味期限というものがあるので、若い読者にとってそれが正解だったのかはわからないが。

・朗読しながら訳したと聞き、この本の読みやすさに納得がいった。カタカナを使わないというのも非常に共感できる。歴史的なことを感じさせるような訳だと思う。

伊達)ノルウェーには男女の差があまりなく、ノルウェー語も女ことばと男ことばの区別はない。ただ日本語では男女同じにすると、女性の台詞がとてもぶっきらぼうに聞こえ、どちらが話しているのか、字面だけではわからなくなる。だが「こうだわ、こうよね」ばかりでは、いまの女性の話し方から乖離してしまう。過剰に女らしくせず、なるべくニュートラルを目指した。第2部終盤で、「俺はシグネの体温を感じた、俺を通り抜けたのだ、俺の中を、とヨハネスは思った、嫌だわ、何かが私の方へ向かって来た、何かが来るのがはっきり見えた、……」(p.118)、こんなふうに視点がパンと切り替わる。ここは女ことばを使うことによって瞬時にシグネに切り替わったと伝わるようにした。またオーライとマルタ夫婦とその孫のシグネとレイフ夫婦は、世代によって夫婦関係も違うと思い、その辺りも口調に少し反映させた。

 フォッセの文章は、フォッセの住んできた地方や風土に根ざしている。小説の場面が自分のなかで具体的にイメージできるよういろいろ試した。漁師をしている中学の同級生を訪ねたり、普連土学園というクエーカー教の学校を出た友人に話を聞いてみたり。アンネさんにはフォッセ特有の表現や西ノルウェーのお年寄りが使う言い回しなど、辞書にもない表現を説明していただいた。またヨハネスの住まい、寝床と台所、母屋と物置小屋の位置関係を図解してもらったり。登場人物の生活や動き、その地の気候、食べているものなど具体的にイメージしていないと、出てくる文章は説得力をもたないのだな、と感じながら訳していた。

 ■死生観

【日本語とNNでの朗読:ヨハネスは、ペーテルに一杯食わされたと思い、……なんなんだ、とヨハネスは思った。なんなんだ。(pp.55-56)】

アンネ)ここは、いたずらで石を投げてみたら、石がその人を通り抜けてしまったという場面。日本人は違和感なく幽霊だと思うのでは? 不思議なことに、ヨン・フォッセはこの点では日本人に似ている。ノルウェーでは、幽霊や死んだ人が私たちのあいだを歩くといった話はあまり聞かない。

伊達)アンネさんからそう聞いて、ヨーロッパではそういうものかと思った。寄せていただいた感想には「この本を読んでよかったのは死が怖くなくなったこと」、「こんなふうに私も死にたい」、「私のときはだれが迎えに来てくれるんだろう」といったコメントが多く、死者と生者の交錯について違和感をもつ人はいなかった。

アンネ)『ぼくは風』と『朝と夕』にはフォッセの死生観がよく見えてくる。実はフォッセの死生観は普通のノルウェー人のものとは違う。ヨーロッパではそこがフォッセのすごいと言われるところなのだけれども、日本では悪く言うとまったく普通で、つまらないように感じられるだろうし、よく言うと、「すごく馴染みがある感じがする」、「実感がある」と受け止められるだろう。

伊達)私も含め、身近な人の死に接した人を励ましたり、慰めたりするところがある。こういう死生観はフォッセの子どものころの臨死体験から来るものだが、フォッセ自身は「(人は死後、)広々としたすごくよいところに行く」と鮮やかに考えていて、あの世とこの世のあいだが説得力をもって書き表されている。それが「そこに行くのだったら私も怖くない」という感想につながっているのだろう。本当に泣いてしまったという人もけっこうあり、実は私自身も訳しながら泣いていた。とてもエモーショナルな、素直に訴えかけてくるものがある。

・フォッセが私の父と同い年なので「ああ、父が死ぬときはこんな感じなんじゃないかな」とか、私が先立った場合「夫がこんなふうに、なにか淡々と過ごせるんじゃないかな」と思ったりした。年齢を超えて理解できるのが不思議。フォッセの描写がまざまざとわかる。

・小児病棟で音楽療法をしており、子どもの死と常に関わっている。あの子たちの死というのはこういうことなのかなと、この本を読みながら思った。

・中年になって老いを体感し、死も意識し始めた。「こういう1日が送れるなら、自分はどこに出没するのかな」と思い、最後は「死は怖くないもの」と感じられた作品で、とても素敵。

■能との共通点

・死の1日の淡々とした書き方に驚く。自分で少しずつ気付いていくというのが斬新。幽霊話や怪談の伝統があり、日本人にはとっつきやすい。それにしてもこの文体で、これだけの確信をもって書くフォッセの勇気がすごい。もはや日本の幽玄の世界に昇華させたものを、ここまでためらいなく簡潔に書き切ったのが魅力。

・アンナと出会うとき、ヨハネスとペーテルが若くなっていた。若いときの自分の姿であり、自分のキラキラしていたときをみんなが共有する。そういうのはたいてい心地よい夏の夜。先ほど幽玄ということばが出たが、能に通じるところがある。日本の古典芸能の能において、死者が私たちに語りかけている場面では、自分の一番輝いていたときのことを話す。また娘シグネと父ヨハネスがすれ違うときに温度差を感じたように、相手の身体を通り抜けるというのも能にある演出。例えば『隅田川』では、母親には亡くなった息子の姿が見えるが、他人には見えない。抱き合おうとすると身体を通り過ぎてしまう。能にはワキとシテという役割があり、現実に生きているお坊さん(ワキ)などは、ほかの人には見えない亡霊(シテ)を見ることができる。ここでは読者がワキだ。2004年のフォッセの舞台でも、所作台に布と柱しか置かれていないなど、能の舞台装置にも似た演出がなされていた。自分が一番輝いていた時間や空間をもう一度みんなに伝えたいという、その思いが伝わってくるこの場面が好きだった。

アンネ)フォッセのミニマリズムお能に似ている。橋掛かりではないが、フォッセと能の関係は研究してみると面白いところだと思う。

ヨハネスが釣りをするとき、ルアーが沈まなくなってしまう(p.32, p.80)。ペーテルは「海にはお前は用済みなんだ」と言うが、これはノルウェーの漁師の言い伝え? 

アンネ)私の知る限り、こういう言い回しはない。フォッセが考えて、この物語に入れたのだと思う。

伊達)私も聞いたことがない。〈用済み〉というのは、やはりヨハネスが亡くなったことを暗示していると感じた。

■聖書とフォッセの宗教観

・「蟹を獲ればあの人は来る、間違いなく来るんだ、と彼は言った/そうだろうな、とヨハネスが言った」(p.105)の部分が好きだった。父を亡くしたときに、プロテスタントの牧師である友人が「キリスト教では死んだらまた会えると考える」と言ってくれてほっとしたことを思い出した。登場人物たちが聖書の名前にちなんでいるのに、神さまを疑っている様子の場面がところどころあった。最後、「間違いなく会える」ということばに安堵した。

アンネ)第2部は蟹の場面も含め、なにか変なことがちょこちょこあり「おかしいな」と読み進めると、ある時点で「もう死んでいるんだ!」と気付くのがとても面白い。漁師にとって魚を釣るというのは生きるためにいちばん重要なことなのに、それができないというのを象徴的に入れている。魚を捕まえるというのは、キリスト教では大きな意味がある。イエス・キリストの弟子には漁師もいたし、〈あなた方も魚を釣るように、人を捕まえなさい〉という聖書の表現もある。

伊達)フォッセはカトリック信者なので、訳すのと並行して、聖書物語なども読んでいたら、「ここも同じだ、ここも似ている」というのが見えてきた。具体的には、パン屑を落とす、石を投げる、髪を切る、はしごを上る、白く塗る、不妊、税金、吐き気など、きりがない。きれいな満天の星を見ているとき、私たちはただ星を眺めているけれども、ある人には星座が見えてくるように、わかる人にはわかる。そんなふうに、読み手に委ねている。ヨハネスとペーテルとヤコブ、この3つの名前はノルウェーによくある名前だが、キリストの愛弟子の名前でもある。ペテロとヨハネは実際に漁師でもあった。キリストとの関係ではたとえば、ペーテルが左に右に傾いでいて倒れそう、腕は外れそうというのは磔のシーンを想起させるし、ヨハネスが海に落ちたときに鈎で引き上げられたから肩に傷があるというのも、十字架に磔にされたキリストがわき腹を槍で突かれたということにリンクしていると思う。キリスト教の要素がたくさん散りばめられ、わかる人にはそれがわかるという小説なのだと思う。

・第1部でオーライがフィドルの曲に神聖を感じる、というところがあった。フィドルは悪魔の音楽と言われていたのでは?

アンネ)むかしパーティーではみんながフィドルに合わせて踊り、飲んで暴れると、「喧嘩や騒動の原因はすべてフィドルにある。だからフィドルは罪の楽器だ」と考えられていた。ノルウェーではとくに優れたフィドル弾きの演奏を「悪魔に取り憑かれているかのよう」と表現し、フィドルは悪魔の楽器と呼ばれた。いまのノルウェーは、そこまで宗教色は濃くないが、フォッセは自分なりの宗教観をもっていて、この小説にもそれが現れている。音楽が大好きで、音楽にこそ神が宿っていると書くことで、いろんな人を怒らせていると思う。

伊達)フォッセは音楽が大好きで、最初は音楽家を目指していた。しかし文学者を目指すことにして音楽を一切やめた。コンサートでバッハのオルガン曲を聴くのは好きらしいが、いまもBGMは嫌っている。『朝と夕』の第2部に、大切にしてきた周りの景色を見渡し、それを見納めのように感じている場面がある。「でも、このすべては俺の内に残る、何かこう、音のように、そうだ俺の内に音みたいに残るのだ」(pp.71-72)。音楽に対する愛が現れているところだと思う。

 ■物語の舞台はいつの設定?

アンネ)この物語には戦争の話も出てこないので、いつの時代の設定なのか、判断がつかないが、おそらく1900代前半かと思う。

伊達)フォッセのおじいさん世代をイメージして訳していた。

・「年金でタバコやコーヒーが買える」(p.48)と、年金の話が出てくる。調べてみると、むかしの年金制度ができたのが1936年と書かれてあった。第2次大戦でドイツ軍に占領される話がまったく出てこないので、そうなると、36年に年金ができて、ナチスに占領される40年までのあいだの話だろうなと思う。ほかにも時代を感じさせるいろんなものが出てくる。例えば、紙巻きタバコやベッド脇の尿瓶。「洗濯機がやって来て、桶で洗わなくて済んだ」(p.38)というのは、60〜70年代の電気洗濯機のことではなく、手回しで撹拌してローラーで絞るタイプのものだろうから、1930年代頃にはあったのかな、など考えながら読んだ。

■装丁とアストルプ

伊達)表紙は担当編集者の田中さんが見つけてくださった、ニコライ・アストルプというノルウェー人画家の絵で、2人の男が手漕ぎの舟に乗っていくのにぴったりの作品。第1部はみすぼらしい漁師の家に子どもが生まれるだけの話だが、私はそこにまるでキリストの誕生のような神聖なものを感じた。それを汲んで、暗いが赤と白と緑と金のクリスマスカラーにしてくださったのだと思う。

・本の装丁が素晴らしく、宝物が届いたような気がした。

・ニコライ・アストルプはムンクの17歳年下で、フィヨルド地方の自然に根ざし、愚直にノルウェーの風俗をもとに描き続けていた画家。北欧では、自然と風景をありのままに見つめるというよりも、一度自分の心を通して自然を見るというムーブメントが生まれていくが、それがひしひしと感じられる画家。

・この表紙の地方に住んでいた。アストルプの絵の道を通って毎週、実習に向かっていたので、懐かしい。

■おわりに−−この作品のもたらすもの 

伊達)第1部でオーライのことばに〈人はただ生まれて死ぬ。それは無のようにも思えるが、実はなにか豊かなものがある。青空はどう? 青々と葉の茂る木々はどう?〉(p.10)と続くところがある。平凡で実直な漁師が生まれ、死んだだけの物語だが、その人生はかけがえなく、尊いのだということを教えてくれる本だと思う。出版後、新聞の書評がたくさん出て、そのお陰で多くの方が手に取ってくださった。個人的に一番うれしかったのは読売新聞の書評で、脚本家、長田育恵さんによるもの。「素朴で神聖、漁師の生死」というタイトルで、「さりげない言葉から人生と肉体が視える。友と日々どんな言葉を交わし肩を並べていたか。実直に生き、為すべきことは為し、為さなかったことはそのままに、ぼちぼち歩きだす後ろ姿が。台詞がまとう息づかいから読者はきっと重ねて思い出すだろう、身近にいる誰かの姿を。…ミニマムな声の奥に深遠がある」。劇作家なだけに、フォッセの真髄まで理解してくださっているように感じた。何気ない一日、私たちのような普通の人の生や人生が神々しく、神聖なものであるということを、ごく自然に受け入れられるようになる。かなり普遍的な生と死を扱っているのだと思う。だからこそ、受け入れてくださる方が多かったのではないだろうか。

アンネ)本当はどの人生も大事で、生きることが大事。どんなに短い人生でも長い人生でも、それは輝いている。死を身近に見るとき、この本は素晴らしい慰めになると思う。そして生まれる前も、亡くなったあとにも、なにかあるという希望をくれる。

・私の方がはるかにすごい人生を送ってきたなと思うぐらい、ヨハネスは本当に普通のおじさんなのに、その人の話がこんなに面白い小説になるということを思い知らされた。

・亡くなった父のことを思い出していた。母(妻)に先立たれて、ずっとひとり暮らしの末に亡くなった。「父もこんなふうに亡くなったのだったらよかった」とほっとした。ノルウェーの漁師と自分の父に共通点はないが、それがすんなり、まるで父のことのように思えたのは、今日のお話を聞いていて、伊達さんの翻訳にすごく工夫があったからだと思った。

・フランスでノルウェー語を学び始めた2006,7年ごろ、「ヨン・フォッセというすごい作家がいるぞ。この作品をぜひ読みなさい」と勧められた。フランス語訳も出ていたし、『だれか、来る』の舞台もあった。いま日本語で読めることの喜びを噛み締めている。また今日のお話で、文字になっているのは氷山の一角、ここに至るまでにその下に膨大なリサーチや知識があったのだと感じた。

・私たちはいろんなことに煩わされ、シンプルには生きられない。生きるということをもうちょっとシンプルに受け止めて、しっかり生きていくのがいいんじゃないかと言われているようだった。

 ここに挙げた感想はほんの一部です。「誕生と死の二部構成とわかって読むと、また違った読み方ができそう」、「1回目と2回目に読んだときの印象が違う」といった声もありました。どうぞみなさんもお試しください。訳者の伊達さんと進行役のアンネさんのお陰で作品の背景にも触れることができ、そしてさまざまな立場のみなさんと感想を共有することで、作品の理解や味わい方がますます深まる読書会となりました。会のあとで、進行役のアンネさんがなんと作家にこの日の様子を伝えてくださいました。最後に、作家ご本人からのお返事を。Det var sterke og rørande reaksjonar på boka. (この本に対する印象的で感動的な反応だ)                  (千)

 

23th ノルウェー読書会のお知らせ『朝と夕』

23th ノルウェー読書会のお知らせです。

2月15日(土)の第23回ノルウェー読書会は、ヨン・フォッセ作/伊達朱実訳『朝と夕 』(2024、国書刊行会)を取り上げます。

 2023年ノーベル文学賞受賞者の作家ヨン・フォッセは、ノルウェー語公式文語ニーノシュクで戯曲に小説、児童文学にエッセイを執筆する多作の作家として知られます。ノーベル賞受賞者の選考に際しては「言葉で表せないものに声を与えた」と評されました。これはいったいどういう意味なのでしょう? 今回は訳者の伊達朱実さん、フォッセにお詳しい翻訳家のアンネ・ランデ・ペータスさんにもご参加いただきます。『朝と夕』を深堀りするこのチャンス、ふるってご参加ください。

詳細は下記のチラシをご覧ください。

お申込みはこちらから→ https://forms.gle/PAecCoY1ZkBkL4gHA

お問合せはこちらまで→ norwaybooks@gmail.com




22th ノルウェー読書会のお知らせ 『野がも』

22th ノルウェー読書会のお知らせです。

12月21日(土)の第22回ノルウェー読書会は、イプセン作/毛利三彌訳『野がも 』(論創社、2024)を取り上げます。

 「近代劇の父」と呼ばれるノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンは、2028年に生誕200年を迎えます。このイプセン・イヤーまでにさまざまなイプセン作品に触れてみませんか。今回は『野がも』を取り上げます。ふるってご参加ください。

詳細は下記のチラシをご覧ください。

お申込みはこちらから→ https://forms.gle/UtPD1qDNPLJXP9Tu7